2023年1月30日月曜日

          人声私語ダイジェスト


 人声私語ダイジェストは1994年から1995年にかけて「人声私語」というタイトルで書いたエッセイの中から約100編を選んで、テーマ別に分類したものである。

 当時私は44才、長浜北高校という中堅の進学校に勤務して、物理を中心に化学、生物、地学などを教えていた。結婚して12年目で、小学校3年生の長女と1年生の長男、それに幼稚園の次男の3人の子どもがいた。そして、もうひとり、というか、もう一匹忘れてはならないのがムーという名前の犬である。家族の誰もがこの犬をかわいがっていたので、この犬は家族の中心にいて家族の接着剤のような役割を果たしていた。「五人と一匹」は、この頃の具体的な出来事を書いた文章を集めたものである。

 また、四〇才を過ぎた私は、すでに人生の折り返し点を過ぎたと感じて、なんら成し得ないままに私は人生を終えることになるのだろうかというような焦りも感じていた(「ああ、中年」)。しかしそれと同時に、私自身の生命観、人生観を転換させるようなこともあって(「干上がる川で」など)、私の周囲の自然へのいとおしさも感じていた(「生命の四季」に収めた文章)。

 さらに、私は理科の教師としていろいろ感じたこともあるし(「ふしぎ大好き」)、理科の教師でありながら文系的な関心もあったので、そのような文章もある(「日本語の風景」など)。

 そして、1994年、95年は、政治的にも社会的にも激動の時期だった。それまで約40年間、自民党による長期安定政権が続いてきたが、リクルート事件をきっかけに政治改革論議が起こり、政治改革に消極的な自民党が総選挙で過半数割れを起こしたことによって、その前年(93年)に細川連立政権が誕生していた。これは、自民党が日本の政治をにない、その批判勢力として社会党が存在するという、いわゆる55年体制が終わったことを意味する。そして94年の1月には細川政権によって、小選挙区制を柱とする政治改革関連法案が成立した。しかし、細川首相は4月にまるで政権を投げ出すかのように退陣し、その後短期間の羽田政権の時期をはさんで、6月には社会党の村山富市を首班とする自民・社会・さきがけ連立政権が誕生した。長らく、日本政治の対立軸であった自民党と社会党の連立という事態は、数ヶ月前まで誰一人予想もしなかった大転換であった。

 さて、その直後、長野県の松本市で何者かが猛毒のサリンガスを発生させ、近くの住人を死亡させるという松本サリン事件が起こった。警察はその容疑者として第1通報者の河野さんを拘束、マスコミもほぼすべてが河野さんを犯人扱いする報道を繰り広げた。こうして彼を犯人とする決定的証拠がないまま、世間には河野犯人説が根強く残った。そんな中で、翌年の元旦、読売新聞に山梨県の上九一色村でサリンの残留物が検出されたというスクープ報道が掲載され、風向きが少し変わる。

 そして1995年、1月17日、阪神淡路大震災がおこった。これは淡路島北部の深さ16kmの地点を震源とするM=7.3の直下型地震で、6000人以上が死亡し、約30万戸の住宅が全壊、半壊、消失、高速道路も橋桁から倒壊するという戦後最大の自然災害であった。

 その混乱が多少落ち着いた頃、さらなる大事件が起こった。3月20日、東京の地下鉄でオーム真理教の信者がサリンガスを発生させ、8名が死亡するなどの大混乱が起こったのである。これは松本サリン事件の捜査が自分達に迫っていることを察知したオーム真理教側が先手を打って攻撃に出たものだった。それをきっかけにして大規模な上九一色村のオーム真理教施設への捜査が行われ、麻原彰晃ら多数のオーム真理教関係者が捕らえられた。その捜査の中で、オーム真理教はロシアから輸入した旧ソ連製の大型ヘリコプターを使って東京上空からサリンを散布する計画を立てていたことも分かってきた。もしこれが実行されていれば、何十万人もの死者が出たことだろう。

 この時期の政治的、社会的な出来事に関して私が感じていた問題点は大きく分けて二つあった。そのひとつは「政治改革=金のかからない選挙=小選挙区制」という単純な図式によって日本社会が動いていくことへの危機意識であった。政治に金がかかるというのは派閥の連合体であるという自民党の党内事情の問題ではないか。それなのに政治改革という錦の御旗のもとに小選挙区制が導入されれば、少数意見が切り捨てられ、ただでさえ、非論理的、情緒的に揺れ動きがちな日本社会で、民主主義の根が断ち切られてしまうのではないかという危機感である。

 そして第2は、政治改革という錦の御旗をいともたやすく受け入れてしまった日本社会、そういうことに何の疑問も提起しない日本のマスコミのふがいなさ、無責任さである。そういうマスコミへの不信感は松本サリン事件の報道を見て頂点に達した。サリンのような猛毒物質は大規模な設備がなければ作れるものではないから、河野さんが犯人でなかったことは明らかだった。理科の教師で化学物質や化学反応についてもそれなりの知識を持っていた私は、事件の第1報を聞いた時からそのことを確信していたのだ。ところが、優秀な科警研を持っているはずの警察も、優秀な科学記者を擁しているはずの大新聞も、河野犯人説を煽り立てた。当然、警察にも新聞社にも河野犯人説に疑問を抱いた科学者がいたはずなのだが、そういう人の意見は組織内で圧殺されたのだろう。これは日本社会のあり方からしても、マスコミのあり方からしても、大問題である。私はそういうことを社会に訴えたいと思った。

 人声私語の中にはこうした出来事に触れたものがたくさんある。私が人声私語を書き始めた直接のきっかけは個人的な事情だったが、書いているうちに次々と大事件が起こって、まるで熱に浮かされるような気分で書き続けたのである。そして、私にはそういうことを周囲の人々に伝えたいという強い思いがあった。しかし、当時の私は高校の教員で、政治的な発言をすることはできなかった。特にこの時期は学年主任という立場にあったので、軽率な言動をして社会から批判されることになれば、私が主任をしている学年の各担任の先生や学校に迷惑をかけてしまう。

 では、そうならないような形で発言していくにはどうすればいいか。そのひとつの方法は、私の文章を一般の新聞や大手の出版社の雑誌などに連載することだと思った。そうすれば出版社の権威を借りることによって批判も軽減されるだろうし、批判されてもそれを乗り越えられるだろう。天声人語に対抗する形で「人声私語」と名付けたのも、あえてそういうマスコミ受けしそうなタイトルをつけようと考えたからである。そして私はこの文章の掲載を新聞社や出版社に依頼した。そのとき、私は自分の文章の内容に自信を持っていたが、マスコミのハードルは高く、どこにも相手にしてもらえなかった。

 今でも私はこれらの文章の内容に自信を持っているし、30年という年月が過ぎた今でも日本の社会の基本的な体質は変わっていないので、現在にも充分通用する内容だと思っている。さいわい、どの文章も660字という字数制限の中で書いているので、気軽に読んでいただけるはずである。また、私は特殊な用語や難しい言い回しなどは避けて、日常的な分かりやすい表現でそれぞれの文章を書いたつもりである。限られた字数で書いているので、多少わかりにくいところもあるかもしれないが、どの文章にも裏の意味などない。書いてある、その文字通りのことが私の言いたいことなのである。どうか、全部の文章を読んで、それぞれの文章に込めた私の思いをくみ取っていただきたい。


               目 次

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生命の四季

  恋の季節  水ぬるむ  干上がる川で  色即是空  美しい9月の朝に

  コスモスのようなヒマワリのこと  オーム貝

五人と一匹

  愛鳥週間  ホタル  廃村の人々  せんせいあのね  女どうし

  ムーの出産  ある後ろめたさ

学校の日常風景

  幼稚園に来た手紙  根性のある話  廃止されたリレー  欠席の理由

  離任式のセーラームーン 人間ってすごい!と思えるしあわせ 組織体としての学校

教育現場から

  輪番制の意義  学識経験者追放論  矛盾を糊塗する方法  居直るべし

  いじめ論議は慎重に  式場の日の丸  校長機関説

平成風景点描

  草むらの凶器  赤ちゃんに缶コーヒー  山が消えた  無礼な奴

  横暴な客  不信の社会  哀しき大道芸

ふしぎ大好き

  ふしぎ大好き  水槽の生態学  摂氏2度で水が凍る?  UFOの正体見たり

  失われた不思議  1PPM  プルト君のウソ

日本語の風景

  人という字  いかがなものか  明日に架ける橋  だった症候群

  壮大なるゼロ  尊い犠牲とは?  ふたつの言語観

文化って何だ

  いわさきちひろの絵  ドラゴンと龍  不気味な世界  エンタメ殺人事件

  芸術って何だ  『モモ』のどこがいいの?  擬人化の問題点

マスコミに異議あり

  大誤報の理由  アレッ?  マッチガソリン  編集者の品性を問う

  感情論に異議あり  食い違う新聞報道  犬も卒倒いづこも同じ待宵月

サルの政治

  まじめにやれ  税制論議のまやかし  選挙制度改革の結果  全会一致

  衆愚政治  永田町の懲りない面々  バカを温存する社会

ああ、日本人

  醜い日本人  日本の負債  深い断絶  銃を持つ権利

  原爆切手の衝撃  ルワンダの悲劇  反核のスタンス

マージナルマン

  マージナルマン  私の挫折  教師らしい教師  欠落したもの

  私が酒を飲めない理由  私の自慢話(1)  私の自慢話(2)   

ああ、中年

  ああ、中年  おとなの世界  知らぬ間の春  雨にぬれた朝

  草いきれと煙のにおい  時の流れに  すさまじき思い


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              生命の四季 について


  私は小さい頃から自然が好きだった。春、夏、秋、冬と季節が変わる中に身を浸していると心が安まるし,動物や植物の姿には、地球で生きている仲間としての連帯感さえ感じたものだ。それは今も変わらない。ここに収録したのは、そのような季節ごとの自然の姿を写した文章である。

 ところで、一九九四年の夏は何年ぶりかの猛暑と干天で、日本各地の川や沼が干上がったが、そんな中で多くの生き物の死を見た私は、「生と死」ということを意識する機会が多かった。やや感傷的すぎるかもしれないが、この年、私はそのような文章を多く書いたので、ここにもそのいくつかを取り上げた。

 「人声私語」には他にも歳時記的な文章が多くあり、ここに収録したいものもたくさんあったが、結局、紙幅の都合で見送らざるを得なかった。自分が愛着を感じる文章の中からいくつかを選ぶのは本当に難しいものだと痛感する。

生命の四季

  恋の季節  水ぬるむ  干上がる川で  色即是空  美しい9月の朝に

  コスモスのようなヒマワリのこと  オーム貝

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              恋の季節


 数日前、車を運転していたときのことである。郊外の信号で止まってふと気づくと、すぐ前の横断歩道の上でスズメが羽根をバタバタさせている。ケガをしているのだと思い、このままでは車にひかれるから横へ移してやろうと、車のドアを開けて降りかかった。

 するとスズメは急に飛び立ってすぐそばの歩道におりた。見ると、なんと二羽なのである。ケガしていたのではなく、交尾の真最中であったらしい。恋の季節が到来したのだ。

 翌日、強風注意報が出て、風速十何メートルかの風が吹いた。家の窓からぼんやり眺めていると、その強い風の中を、スズメらしい鳥が、何か小さな黒い小物体のように飛ばされていくのが見えた。このあたりの樹々はほとんど落葉樹で葉を落としたままなのだが、こういう日に、スズメがどんなところにいるのか、私は知らない。

 そして、またその翌日、今度は朝から雪が降った。しかし、雪はすぐにやんで晴れわたり、真白になった遠くの山々がくっきりと見えた。周囲がまぶしいほどに白いだけに、あっちこっちと飛び回るたくさんのスズメの姿が目立ち、にぎやかな鳴き声が聞こえた。

 不思議なもので、普段はその存在さえ気に止めていないスズメなのだが、一度意識してみると、その後やけに目立ち、何かいとおしさに似たものすら感じられる。

 しかし、春夏秋冬と季節がめぐり年がたっていく中で、スズメは人に見られようが見られまいが自らの営みを続けている。それはもう何十万年も続いてきたことで、今また春になったという、それだけのことである。

生命の四季

  恋の季節  水ぬるむ  干上がる川で  色即是空  美しい9月の朝に

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              水ぬるむ


 水ぬるむというのは、早春をあらわす季語だそうだ。しかし『ぬるむ』ということばの語感は、むしろ今の季節にふさわしいように思う。今日、四月五日、近くの川辺に散歩に行ったら、このことばがぴったりと当てはまるような情景に出会った。

 芹川という川幅が二、三十メートルの川である。水はよく見ないとわからないほどゆったりと流れ、その表面に細かい藁クズのようなゴミが浮いていた。空は晴れ渡ってほとんど風もなく、穏やかな日の光が川面を照らしている。岸辺ではタンポポやスミレが咲き始めている。こんな日は、川面に浮かぶ藁クズさえ好ましく思われるものだ。

 川の真中あたりには百羽ほどのカモが群れをなしていた。冬の頃は見かけた記憶があまりないので、ちょっと不思議な気もする。散歩に連れていった犬がしきりにそのカモに向かって吠えるのだが、カモの方は一向に気にする気配もなく悠然と水に浮かんでいる。

 最初は気付かなかったが、よく見るとカモは二羽づつ行動をともにしている。一羽はやや大きく茶色や青色の羽根の色が鮮やかで、もう一羽はやや小さく地味である。小石を拾って近くのペアーに投げたら、仲良く連れだって飛び立ち、しばらく一緒に飛んだ後に少し離れたところに降りた。それがおもしろくて何度か同じことを繰り返した。

 そうしながら、こんな事をしているとどこかの教育ママが眉をしかめるかもしれないと思った。しかし、私が投げた石は共に春を生きる仲間であるカモ達への親愛の情を込めた挨拶なのである。

生命の四季

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              干上がる川で


 例年より早かった梅雨明け以来、もう二十日あまりも雨の降らない日が続いている。

 そのため、普段は川幅が三十メートルはある芹川もどんどん干上がり、水の流路が極端に狭まった。しかも、その水もよどみがちで、深みには水草が生い茂っている。露出した川底のあちこちに深さが十センチもない水溜りが出来ているが、これも日一日と小さくなり、干上がってゆく。

 夕方、この川岸を歩いていると、流路の一部が異常に盛り上がり、水草の間にピカッと光るものが目についた。何だろうと近寄ってみると、なんと数千匹もいようかという小魚の大群だ。まるでその魚の一部が群れからはじき出されるようにして水面に跳ね、その白い腹が夕日に光るのである。

 私はふと気になって水溜りの一つを覗いてみた。すると居る居る、さっき見たのよりはずっと小さいが、やはり何百匹もの魚がそこに群がっているのだ。 この魚たちは水溜りが干上がれば死んでしまう他ない。いや、既にそのようにしてあちこちで無数の魚が死んだのだろう。彼らはこうした環境の変化から身を守る術を持っていない。自然の気まぐれのもとでは個体の運命など風前の灯し火よりはかないのだ。しかし彼らの仲間の一部は安全な水域に逃れていて、やがて新しい命をはぐくむはずだ。

 生命の本質は個体にではなく、種にある。何千、何万の魚が無為に死ぬ。だが種は生き残る。そういうことは理屈としては知っていても、実際に自分の目で確認してみるとやはり強烈な印象を伴うものであった。

生命の四季

  恋の季節  水ぬるむ  干上がる川で  色即是空  美しい9月の朝に

  コスモスのようなヒマワリのこと  オーム貝

 

              色即是空


 夏山に登ろうと、家族五人で山の麓でキャンプした。山の麓とはいっても、暑さは市街地とそう変わらないようだが、生き物たちの姿はまるで違う。まず気がついたのはやたらとチョウやトンボが多いことだ。チョウもトンボも小さなものから大きなものまで多種多様なものがいて、しばらく手を差し出しているとその先にとまってくる。まるでチョウとトンボの里という風情だ。

 森の中に入っていくと、さすがにこの干天続きで谷川には水がなく、大きな石ころばかりが転がっている。しかし森の土はしっとりしているし、森の下草も湿気を含んでいる。しばらく歩いて行くと清らかな谷川の流れにも行き着いた。このあたりでは、命がみなぎっているという感じだ。そんな様子を見ながら私が思い出したのは、干上がっていく芹川で死んでいった夥しい小魚たちであった。

 仏教で、色即是空、空即是色という。このようにみなぎる命も、その本質的なところでは外界の諸条件に支配されており、外界から独立して存在できるものではない。実際、一見ゆたかなこの森も、たとえばもう何カ月かの干天が続けば滅びていくだろう。ところが、そうして滅びたかに見える命も、どこかにその種子を残しており、条件が整えばまたこの地上を覆っていくに違いない。

 私たちのキャンプ地にはたくさんの猿がいた。森へ残飯を埋めに行った長男が作業の途中で猿ににらみつけられて怖くなったと、スコップを振り回しながら逃げて来た。こういうできごとも、いわば『色』の世界、命あるもの同士の交流の一つの姿であろう。

生命の四季

  恋の季節  水ぬるむ  干上がる川で  色即是空  美しい9月の朝に

  コスモスのようなヒマワリのこと  オーム貝 

              美しい九月の朝に


 それは九月初めのきれいに晴れた朝、出勤途上でのことだった。田園の中の広い道を走っていると、道路の真ん中に数羽のカラスが群れていたのだ。私は車のスピードを落として近づいたが彼らはまるで飛び立つ気配がない。仕方なく私はその五メートルほど手前で車を止めた。

 見るとカラス達はテニスボール大の白いものを奪い合っている。私は何だろうと思いつつ車から降りて近づいたが、カラス達はそれでも逃げない。二メートルほどの距離に近づいたとき、私はようやくそれが小猫であることに気づいた。小猫はニャーニャーと悲鳴を上げていたが、カラス達はそんなことにはまるでお構いなしに、この獲物を独占しようとして周囲から引っ張りあっているのだ。私はあわててカラス達を追い払った。

 見ると小猫の両目はつぶされて真っ赤な血に染まっていたが、その外には目立った外傷はなく足どりも確かである。この猫をどうしようかと、私はしばらく迷った。私が拾って手当をしてやれば命をとりとめるだろう。だが、もしこのまま放置しておけばまだ未練がましく上空を飛び回っているカラスの餌食になるのは間違いない。……しかし、とりあえずこの場を救ったとしても、私がこの猫を将来に渡って飼うわけにはいかないのだ。

 結局、私は小猫が道ばたの草むらの中へ身を隠すのを見届けてその場を後にした。車を発進させてからも、まだカラスが舞い降りてこないことをバックミラーで確かめながら走ったが、悲劇の現場は急速に視界から去り、車は市街地に入っていったのだった。

生命の四季

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  コスモスのようなヒマワリのこと  オーム貝 

        コスモスのようなひまわりのこと           


 数年前のことである。私は一袋の種を買ってきてひまわりを育てた。ひまわりは普通、直播きするものらしいが、私はまず育苗用の小さなプランターで苗を育て、それを家の周りに移植した。約十本のひまわりはグングン伸びて二階の窓の高さにまでなり、見事な大輪の花を咲かせた。

 そしてその秋、このひまわりがすっかり枯れてしまった頃、私は生け垣の日陰に形も大きさもコスモスとそっくりの黄色い花を見つけた。最初はそれが何かわからなかったが、やがて、それは場所がなかったために移植せずそのまま忘れてしまったひまわりであることに気づいたのだ。その瞬間、私は胸を一突きされたような衝撃を感じたのだった。

 私が移植しなかったために、小さなプランターの中で根も張れず充分な養分も吸収できなかったひまわり。おまけに生け垣の日陰になって太陽の光さえ受けることが出来なかったのである。それでも精一杯に育って、こうして時期遅れの小さな花を咲かせた。

 私がそのときに感じた思いは、ちょっと説明がつかないほど複雑だった。まず、私がこのように放置して忘れてしまっていたことへの罪悪感があった。恵まれない条件の中で懸命に育ったひまわりの生命力への驚きと、頬ずりしたくなるようないとおしさもあった。そして逆に、このようにしてまで育つ生命というものの不気味さをも感じた。

 そのコスモスのようなひまわりは、やがて、小さく数も少ないながら種を稔らせた。私はせめてもの罪滅ぼしのつもりでその種を取り、翌年にはしっかりと植えた。

生命の四季

  恋の季節  水ぬるむ  干上がる川で  色即是空  美しい9月の朝に

  コスモスのようなヒマワリのこと  オーム貝

              オーム貝


      冬微光 化石の貝の 覚めぬほど   水尾

 私の部屋の本棚の上に、直径十数センチのオーム貝の殻がある。鮮やかな茶色の縞模様のある白いつややかな貝殻で、何年か前に観光地の売店で買って来たものだ。

 さてこのオーム貝、一見何の変哲もない貝に見えるが、実は、今から七千万年前、恐竜たちと共に絶滅したアンモナイトの仲間だそうだ。この種類の特徴は貝殻の内部に空気の入った浮力室があって水中を自由に泳ぎ回れることである。オーム貝はこういうアンモナイトの特徴を伝えているので『生きた化石』とも呼ばれており、現存の生物で言えば、貝よりもタコに近いのだそうである。

 今は冬。そして今日は今にも雪の降りそうな曇り空。本棚の上のオーム貝の殻には窓ごしのごく淡い光が射しているだけだ。しかし日本海式気候のこの地方の冬の天気は変わりやすく、晴れと曇りと雪とが、不規則に、目まぐるしく変わる。そのたびに貝殻に射す光と陰のさまも変わる。ところが、その目まぐるしい変化をも知らぬがごとく、オーム貝の殻はひっそりと本棚の上にある。

 思えば、本棚の上の貝殻をよぎるこの光陰の流れは、二億年以上を生きたアンモナイトの時代と、その後七千万年を生き延びてきたオーム貝の時代の、気の遠くなるような長い時間を象徴しているようではないか。この貝が何年前まで生きて海を泳いでいたのかは知らないが、今では死してその悠久の時の流れに加わったのだと思うと、何か宇宙の神秘に触れたような気さえするのである。

生命の四季

  恋の季節  水ぬるむ  干上がる川で  色即是空  美しい9月の朝に

  コスモスのようなヒマワリのこと  オーム貝

              五人と一匹に ついて


 私の家族は私と妻、長女の朝子、長男の太郎、次男の次郎の五人で、私がこの文章を書き始めた一九九四年当時は、朝子が小学校五年、太郎が小学校三年、次郎が幼稚園の年長組だった。その他に太郎が太郎が小学校一年生の時にもらってきたムーという犬がいた。

 私は高校の理科の教師で、妻もかつては国語の教師だったが、数年前には退職して、この頃は専業主婦であった。

 と、こう書くと私の一家は幸せな「ニューファミリー」の典型のように思われそうだが、実態はそんなイメージとは裏腹に、毎日がすさまじいとっくみあいの明け暮れだった。怒りっぽい両親と勉強嫌いで反抗的なこどもたちのどなりあいは、町内の名物だったそうである。

 そんな家族に幾分のうるおいと安らぎを与えていたのが犬のムーで、ムーは家族のみんなからかわいがられて、家族の中心にいた。そんな五人と一匹の物語である。

五人と一匹

  愛鳥週間  ホタル  廃村の人々  せんせいあのね

  女どうし  ムーの出産  ある後ろめたさ

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               愛鳥週間


 先日、小学校三年生の長男が下校途中の道でけがをした雀を見つけて、家へ連れて帰ってきた。長男にせがまれた妻はその雀を獣医に手当してもらい、エサも買ってやった。

 私が勤め先から帰ると、長男は眼を輝かせてそのことを報告しその雀を見せた。家に鳥かごがないので、雀はかぶと虫などを飼う大きめの虫かごに入れられていた。

 巣立った直後なのであろうか、きれいな羽根をしていた。私は『野鳥を飼うのは難しいよ、お父さんも子供の頃けがをしていたカラスを飼ったことがあるけれど、二、三日で死んでしまった。』と自分の経験を話した。

 翌日、勤務先の学校から家に電話しようと公衆電話のある正面玄関に行くと、雀が一羽バタバタと飛び回っている。外へ出ようとしているらしいのだが、玄関の大きな一枚板のガラスにぶつかってしまうのだ。私はドアを開けて雀を外に出してやった。 家に電話すると妻は私の用件も聴かぬうちに『雀が死んでしまった。太郎(長男)は布団にくるまって泣いている。』と興奮した声でまくしたてた。長男は人一倍思い入れの強い性格なので相当ショックだったらしい。

 今、愛鳥週間である。別にそれを意識したわけではないが、この二、三日、わが家は雀に明け雀に暮れた。普段は私がハラハラするほど厳しく子供を叱ることの多い妻も、この件に関しては長男のわがままをきいてやった。普段は読書に縁のない長男も学校の図書館で雀の本を借りてきて読んでいる。家族が皆一羽の雀を案じた結果、愛鳥週間はわが家にとっては家族週間となったようである。

五人と一匹

  愛鳥週間  ホタル  廃村の人々  せんせいあのね

  女どうし  ムーの出産  ある後ろめたさ

               ホタル


 昨日、伊吹山の麓の山東町でホタル祭りがあった。ここはホタルの名所として名高く、近隣の府県からも多数の見物客が訪れる。私たち家族は昨年も行ってみたが、半月ほど時期が遅く、もうホタルを見ることはできなかった。そこで今年こそはと、ホタル祭りの日を待ちかまえていたのである。

 ところが当日はあいにくの雨。それでも、もしやという期待もあって、一時間ほど車を走らせたのだった。しかし現地についた頃にはむしろ雨足が強まり、おまけに風まで出てきて車から降りることもできなかった。

 そんな日でもJRの駅からは次々と見物客が吐き出されてくる。それを見て妻は『こんなに客がくるのだから、もう少し待てば見られるのではないか。』と未練がましく言う。しかし私はそれも振り切って『花は盛りを、月はくまなきをのみ見るものかは』などと言いながら、車を家路に向けた。

 そして今日、私が犬を連れて近くの川べりを散歩しているとき、一匹のホタルを見つけた。彦根市内にホタルがいるとは聞いたことがないので、これは私の大発見だ。私はそのホタルを捕まえて急いで家に帰った。

 『ホタルを捕まえてきたぞ』という私の声にこどもたちが家から飛び出してきた。こどもの手にホタルを移すと、その幼い手の中で黄色い光が明滅し、その手が透けるように見える。一通りそのホタルを観察してから空中に放ってやった。ホタルはしばらく鮮やかな光の糸を引きながら周辺を飛び回り、やがて隣家の屋根の上に消えた。こどもたちにとっては生まれて始めて見たホタルだった。

五人と一匹

  愛鳥週間  ホタル  廃村の人々  せんせいあのね

  女どうし  ムーの出産  ある後ろめたさ 

               廃村の人々


 一家五人で登山しようと、ある山の麓の某村でキャンプした。交通の不便なこの村は、十年ほど前から定住者がなくなり、廃村状態になっている。ところが好運なことに私たちがこの村に入った八月七日は年に何回かの村の祭日で、元の住人が全員この村に帰っていた。キャンプ地を捜していた私たちは、断われることを半ば覚悟しながら寺の境内を使わせてもらいたいと区長さんに頼んでみた。

 するとその依頼に対して帰ってきた答えは驚くほど好意的だった。『そこはマムシが多いし、昼になれば直射日光を受けて暑いから、近くの神社の境内の方がいいだろう。そこなら日陰だしテントも張り易いだろうから。』というのである。そして神社の隣の人は自分の家の水道や便所を使いなさい言って、便所にトイレットペーパーを補給してくれた。

 また、村で一軒だけ電話がつながったままになっているという別の家の人は、『もし必要なら自分の家の電話を使ってもいい。電話の場所が分かるように家の電気をつけたままにしておいてあげよう。』と言ってくれた。 全く見ず知らずの人間にこれほど親切にしてくれる人々がいようとは、考えてみたこともなかった。この村の人々は最近まで古い生活習慣を守ってきたようだが、昔の日本人は誰もがこういう親切な応対をしていたのだろうか。それともこの村が山の中に隔絶していた村だったために、人懐かしい気持ちで来客を歓迎する風習があったのだろうか。

 いずれにしても、この体験は私に好意と善意をもって他人と交わることのうれしさ、素晴らしさを教えてくれたのだった。

五人と一匹

  愛鳥週間  ホタル  廃村の人々  せんせいあのね

  女どうし  ムーの出産  ある後ろめたさ

              せんせいあのね


 せんせいあのね、きょうはなつやすみのさいごの日なので、なつやすみのけいかくひょうとにっかひょうをつくりました。おかあさんが、『あしたがっこうへもっていくんやから、いますぐにつくりなさい。つくれるまでてれびはみてはいけません』といったので、ぼくはがんばってつくりました。

 あさは6じにおきてらじおたいそうにいくことにしました。そしてよるは8じにねることにしました。そしたらおかあさんが『ねるじかんは9じにしなさい』といいました。でも、おかあさんはいままで『8じにはねなさい』といっていたのでぼくはふしぎでした。それで『どうして』ときいたら、おかあさんは『8じにしたらきろくのらんが×ばっかりになるやろ。そやけど9じにしたらだいたい○になるもん。』といいました。それでぼくは9じにねるけいかくにしました。

 それから、きろくのらんに○や×をかきました。べんきょうやおてつだいができたかどうかはだいたいおかあさんにおしえてもらいました。でも『うんこ』がでたかどうか、おかあさんもわからないのでこまりました。

 きろくひょうをかいていたらおとうさんが『おてんきはかかなくてもいいのか』といいました。そして『おてんきをかくのなら、きょうのちゅうにちしんぶんになつやすみちゅうのおてんきがぜんぶのっていたよ』といいました。そしたらおかあさんが『ちゃかさんといて』といっておこりました。

じょうせいしょうがっこう 1ねん    もりもと じろう 

               だいひつ もりもと おとうさん 

五人と一匹

  愛鳥週間  ホタル  廃村の人々  せんせいあのね

  女どうし  ムーの出産  ある後ろめたさ

              女どうし


 ムーの妊娠がいよいよ間違いなくなってきた。これまで毛に包まれて見えなかった乳首が大きく赤く目立ってきたし、こころなしか体も大きくなったように思われる。散歩に連れて行っても動きが鈍く、やたらと道に座り込んだり草の根を掘ったりする。お相手は九月末に私たちが交尾しているところを見つけた白い大きな犬に違いない。

 ムーが妊娠しているとわかったとたん妻が急に優しくなった。それまではどちらかと言えば妻よりも私の方がムーに優しくしていたのに、最近では妻が『犬小屋を外に置いたままでは体が冷えるのではなかろうか』などと気遣いを見せている。ドッグフードに金をかけるのを渋っていた妻が、高価な缶詰のドッグフードを買ってくる。

 そういえば交尾の直後に『もし妊娠していたら、中絶できないだろうか』と私が言ったとき、『そんなことはかわいそうだから産ませてやって』と言ったのも妻だった。やはり女どうしだと感心したものである。

 先日、妻がムーを散歩させていたら、交尾のお相手の白い犬と出会ったそうだ。ところがその犬はムーには全く関心を示さず、さっさと行ってしまったという。妻は義憤にたえないという面持ちでそのことを話し、小学校五年生の長女に『人間も同じだよ。自分だけいい目をみたら後は知らん顔という男が一杯いるから、だまされたら駄目だよ。』などと言っている。長女がどこまで理解したのかはわからないが、私は『なんと大胆な性教育』と度肝を抜かれてしまった。男には入り込めない女どうしの世界である。

五人と一匹

  愛鳥週間  ホタル  廃村の人々  せんせいあのね

  女どうし  ムーの出産  ある後ろめたさ

               ムーの出産


 ついにムーが三匹の仔犬を産んだ。昨夜九時頃のことである。

 そのとき私は次男とともに風呂から上がった直後だった。不意に『ムーが赤ちゃんを産んだ!』という妻の叫び声が聞こえたのだ。 その声に家族みんなが犬小屋へ駆け寄った。するとムーが土の上にうずくまり、その足の間にまだ羊水に濡れたままの黒っぽいずんぐりとした仔犬が見えた。ムーは頭だけ持ち上げてしきりに何かしているが、暗くてよくわからない。しばらくして『ムーがヘソの緒を噛み切っている!』とその動作の意味に気づいたのは長女だった。私たちはしばらくムーと仔犬を観察した後、家に入った。

 妻は興奮気味に長男を抱きしめて『私もおまえたちを産んだときのことを思い出した。大事な体を叩いてごめんね!』と言う。長男の勉強を見てやっていた妻は、長男がしばらく前に習ったかけ算のやり方を忘れていると怒って長男の頭を叩いたのだそうである。ムーの出産のおかげで、長男の勉強の続きはなし、無罪放免ということになって、私たちは揃って寝床に入った。

 さあ、眠りにつこうかという頃、またムーの苦しげな声。私たちは寝床を飛び出してまたムーの周りに駆けつけた。すると、案の定二匹目が生まれていたのである。私たちはまた『かわいい、かわいい!』と、ひとしきりムーと仔犬を賞賛した後、寝床に戻った。

 『ああ、僕、興奮して今夜は寝られそうにない。』と長男が言った。しかし、それから十分ほどして三匹目が生まれたとき、長男はぐっすりと眠っていたのだった。

五人と一匹

  愛鳥週間  ホタル  廃村の人々  せんせいあのね

  女どうし  ムーの出産  ある後ろめたさ

              ある後ろめたさ


 数年前、私のこどもたちがまだ保育園に通っていた頃のことである。職場の慰安旅行に参加した私は、宴会の前、豪華な食事が並んだホテルの大広間から自宅へ電話を入れた。電話に出たのは長男だった。受話器からは、『お父さんから電話!』と家中に叫ぶ長男の声が聞こえてきた。そして私の『みんなどうしてる?』という問いかけに、彼は『おとうさん、今日はカレーやで!』と弾んだ声で答えたのである。その途端、私はことばに詰まってしまったのだった。

 その主な理由は自分の目の前の豪華な食事とカレーとの落差だった。パチンコで一万円負けて帰ったときに、百円の小遣いをもらって大喜びをしている子供を見るような気分である。しかし長男にそんな思いが伝わる筈もなく、彼は無邪気に『今日はカレーやで!』とはしゃいでいるのだ。普通なら『そうか、よかったね』と応じるところなのだが、そのことばを無条件で口にすることが出来ない自分が後めたく感じられたのだった。

 豪華な食事といっても決して特別なものではない。年に一度の慰安旅行でのことだし、家族旅行ではこどもたちにも同じような食事をさせている。またこどもたちがカレーで大喜びしているのも間違いなく、彼らに私の前の会席料理がいいかカレーがいいかと尋ねれば彼らは躊躇なくカレーと答えるだろう。

 だから、理屈の上では私が後めたさを感じるべき理由は何もないのだ。それにもかかわらずあのとき強烈に感じた『後めたさ』というか、ある種の『わびしさ』は何だったのだろうかと、今も気にかかる。

五人と一匹

  愛鳥週間  ホタル  廃村の人々  せんせいあのね

  女どうし  ムーの出産  ある後ろめたさ

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              学校の日常風景 について


 学校というところは、生徒に知識を教えたり技術を身につけさせたりするところだが、それ以上に人と人とが出会うところである。

 当時、私は高校に勤める教師であり、同時に三人の子どもを幼稚園や学校に預けている父親でもあったので、教師として、保護者として学校で起こるさまざまなできごとを直接体験したり見聞きしたりする機会が多かった。

 世の中には境遇も違い、価値観も違うさまざまな人たちがいる。そして、学校がそういう人たちの出会いの場である以上、時には予想もしなかったようなできごとも起こる。それらの中には感動的な者もあれば、深く考え込んでしまうようなこともあって、どれもそれなりに面白い。

 むろん、それらは今日の教育が抱える問題と深く関わっているのだが、そうした深刻な議論は次の項目に譲ることにして、ここでは、ややもすれば見過ごしかねない、日常的な学校内の様子を紹介した文章を集めてみた。

学校の日常風景

  幼稚園に来た手紙  根性のある話  廃止されたリレー  欠席の理由

  離任式のセーラームーン 人間ってすごい!と思えるしあわせ 組織体としての学校

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               幼稚園にきた手紙


 最近、私のこどもが通う幼稚園に、うさぎさんからの手紙がきたそうだ。これにはちょっとした事情がある。

 半月ほど前、園児のひとりがうさぎを放り投げ、地面に落ちたうさぎがケガをしたのだという。前後の事情はよくわからないが、どうも抱いていたうさぎが手に噛みついたので、慌てて放り出したらしい。地面に落ちたうさぎは血まみれになったという。ちょうどそれが降園の時間帯だったので、何人かのお母さんがそれを見ていて、その話はショッキングなニュースとして広まったのだ。

 やがてその噂がわが家まで伝わってきた。それによると、わが家の次郎もうさぎを放り投げたグループにいたという。そこで妻が何気なくその話をすると、次郎は『うさぎを投げたのは僕ではない。先生に電話して確かめて。』と言ったそうだ。しかし妻は次郎を疑っていたわけではなく、詮索するつもりもなかったのでそのまま受け流しておいた。

 ところが次の日、今度は次郎の方からこの話題を持ち出してどうしても確かめてほしいと言い張るので、先生に電話したのだそうだ。

 先生は『自分はその場にいなかったのでよく分からない。その後こどもたちはうさぎのケガを気づかっているので、犯人を捜すようなことはしなかったが、園児や保護者の間に疑心暗鬼が広がっているのなら、何か手を打たないといけませんね』と言ったそうだ。

 うさぎさんからの手紙が届いたのはその数日後だ。たぶん『もうケガは大丈夫だから心配しないで』という内容だろう。次郎はそれを目を輝かせて報告したそうである。

学校の日常風景

  幼稚園に来た手紙  根性のある話  廃止されたリレー  欠席の理由

  離任式のセーラームーン 人間ってすごい!と思えるしあわせ 組織体としての学校 

              根性のある話


 二、三年前のことである。私が学校の廊下を歩いていると、男子便所のボックスに数人の生徒が群がっているのが見えた。タバコを吸っているのではないかと気になって入って行くと、大便器の中にお金を落としたのだという。見ると確かに数センチ水が貯っている中に五百円玉が沈んでいた。

 生徒たちは最初、割箸を借りてきて拾おうとか、いやゴム手袋の方がいいとかいろいろ相談していた。ところが何かのきっかけで急に諦めようということになって、立ち去ろうとしたので、私は慌てて彼らを呼び止めた。お金を粗末にしてはいけない、それにこのままにしておくと排水パイプに詰まるかもしれない、だからちゃんと拾いなさい、割箸もゴム手袋も必要ない、自分の手で拾えばいいんだと言ったのである。

 ところが、彼らは顔を見合わせるばかりである。私が何度うながしても誰も拾おうとはしない。私はついにしびれをきらして自分が水の中に手を入れて拾った。その途端、生徒たちの中から『すごい』とか『根性がある』などという歓声が上がった。まさかこんなことで『根性がある』と言われようとは思ってもみなかった。

 生徒が便器の中のお金を拾うのをためらったのはわからぬではない。私も彼らくらいの年代には同じだったような気がする。ところがいつ頃からか、ある程度は自分の不快感や屈辱感を抑えて必要なことが出来るようになった。もしかしたらそれは社会人としての成長であり、実際に『生きていく根性』が出来たのかもしれない。

学校の日常風景

  幼稚園に来た手紙  根性のある話  廃止されたリレー  欠席の理由

  離任式のセーラームーン 人間ってすごい!と思えるしあわせ 組織体としての学校

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              廃止されたリレー


 私のこどもが通う小学校の運動会で、今年から選手によるリレーがなくなった。従来、鼓笛隊の演奏と組み体操、そしてリレーが最も盛り上がる種目だったのに、その一つがなくなったわけだ。その理由について公式の説明はないが、保護者の間に流れている情報では、選手を選ぶことは能力差を認めることになり、教育上よくないという配慮かららしい。

 最近、こういう発想は教育の場でよく見られるが、ここまでくると悪平等であり過保護だ。走る速さに違いがあるのは歴然とした事実である。それは隠すよりもむしろ表に出すべきなのだ。そうすることによって速い者は自信を持つだろうし、遅い者は明白な目標を持つことができる。その結果こども達が物事に取り組む真剣味も出てくるし、集団全体の能力も向上していくはずだ。

 走る速さに序列をつけることは人間の価値に序列をつけることではない。小学生くらいではその辺りを混同する者もいるかもしれないが、それを恐れるべきではない。むしろこの機会に人間の持つ能力差とそれに対処する方法、そして能力差とは無関係な人間の尊厳性について教えればいいのだ。それこそ机上の空論のような同和教育よりずっといい。

 やがてこどもたちが入り込んで行く大人の世界は、あらゆる場面で能力差を公認し、それによって評価される世界である。こどもの頃に能力差を包み隠して過保護に育てられ、能力差を乗り越える方法を身につけないまま大人になったとき、彼らがこの社会に対応できるだろうか。今の教育はひ弱な人間を作っているように思えてならない。

学校の日常風景

  幼稚園に来た手紙  根性のある話  廃止されたリレー  欠席の理由

  離任式のセーラームーン 人間ってすごい!と思えるしあわせ 組織体としての学校

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               欠席の理由


 『明日一家でスキーに行くので、学校を休みます』という欠席の届をしてきた生徒がある。私は一瞬答えに詰まってしまった。

 学校の欠席理由と言えば、病気や怪我と相場が決まっている。今までも学校を休んでスキーに行った生徒はあっただろうが、その場合でも表向きは風邪とか腹痛とかもっともらしい理由をつけていたはずだ。スキー欠席など許されないというのが学校の常識である。

 私はあるクラスの出席簿で、欠席生徒の欄に『子守りのため』という注釈がついているのを見て感動したことがある。たとえば幼児のいる家庭で母親が病気になったり、両親とも働きに出ていて休めないような事情があるときは、高校生の兄や姉が休んで子守りをするのは当然であろう。ところがそれすら認めないような雰囲気が学校にはある。そんな中で、あえて『子守りのため』と書いた担任を私は尊敬する。

 『何をさておいても学校を優先すべし』という考え方は、明治期に学校教育を定着させるために徹底されたのであろう。その段階での歴史的な意義は充分認めたい。

 しかし今、生徒達が家庭の事情など一辺の配慮もせず、自分達の勉学や部活動の都合を最優先して平気でいるのは気にかかる。学校でも家庭でもそれを当然としているのを見るとなおさらだ。必要なら学校を休んででも家庭の一員としての務めを果たさせることこそ、本当の教育ではあるまいか。

 ただその場合、子守りは是か否か、家族スキーはどうかという問題に、親も教師も直面しなければならないのは事実である。

学校の日常風景

  幼稚園に来た手紙  根性のある話  廃止されたリレー  欠席の理由

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               離任式のセーラームーン


 今日、体育館に全生徒を集めて離任式が行われた。他校に転勤した先生がもう一度本校に集まって生徒たちに最後の挨拶をする。ところが、転勤した先生の一人に式に出られない事情が出来て、生徒たちへのメッセージを録音したテープが送られてきた。

 それは本校の中堅で生徒たちからも人気の高かった家庭のB先生である。彼女はこの学校にいたときの生徒との交流の思い出や、新しい勤務先での仕事について語った。それから、自分の母親が広島で体験した原爆の悲惨さや、自分が子供をなくしたときの悲しみなど、人生の辛さや苦しさについても語った。そして最後はテレビのアニメ『セーラームーン』のテーマ曲で締めくくったのである。

 『どんなピンチの時も絶対あきらめない/ そうよそれが可憐な乙女のポリシー/いつか本当に出会う大事な人のために/顔をあげて飛び込んでいくの/がんばる人がいいよね/泣きたいこともあ るよね /だけど、ピッとりりしく』 

 軽快なこの曲が大音量で流されると、体育館の生徒たちは大いにわいた。 

 実際のところ、私自身はこういう浪花節的な歌は好きではない。それに、この先生は新学科の開設をめぐって教職員と県教委が対立している高校へ新学科の開設準備要員として転勤したのだ。その高校の教職員を支援する私には転勤自体をとがめたい気持ちもある。

 それでも私はこのテープを好感を持って聴いた。生徒の目の高さにいて生徒と涙を共有しながら、自分をさらけ出して体当りしてゆく、そんな教師の姿を感じたからである。

学校の日常風景

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              人間ってすごい!

           と思えるしあわせ


 卒業式の季節になった。私の勤める高校からも、約三百人の生徒が卒業していく。その中のあるものは就職し、あるものは大学へ進学し、あるものは保母になったり看護婦になったりするため、それぞれに短大や専門学校へと進んでいく。

 ところで、私の高校の進路指導室の前に一枚のポスターが張ってある。それは日本医師会が作った看護婦のPRポスターで、にこやかに微笑んだ看護婦の写真の隣にひとこと、 

   『人間ってすごい!』 と 思えるしあわせ 

と書かれている。よほど優秀なコピーライターが書いたのであろう。短い文の中に、人間の生命力を見つめて生きる看護婦という職業の魅力が的確に表現されている。 

 もちろん、現実には看護婦という職業は三Kとも七Kとも言われる厳しい職業で、こんな風に毎日感動ばかりしているわけにはいくまい。が、職業を単に金を稼ぐ手段として考える風潮の強い今日、このようなロマンや理想、使命感などを持って社会に出ていく人が多くなるのは悪いことではないと思う。

 看護婦だけではない。どんな職業にもそれぞれに重い使命とやりがいがある。そして、同時に表には現われぬ厳しさもある。それらを発見させていくことこそ本当の進路指導だと思うのだが、今日の高校にはそれだけの余裕がない。偏差値に応じて受験先を決めていくという受験指導で手一杯だ。

 もう何日かすれば卒業式という今、こういう思いを抱きながら、せめても卒業生たちが実社会の中で確固とした自分の道を見つけてくれることを期待している。

学校の日常風景

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              組織体としての学校


 九年前、私の長男が生まれる前のことである。当時私たち夫婦は二才になったばかりの長女と三人暮しをしていた。ところが第二子の出産を控えた妻が前置胎盤になり流産のおそれがあると診断されて、出産までの三カ月間入院したのである。

 そのあいだ、私は掃除・洗濯・炊事などの家事の一切と、長女の世話や保育園への送り迎えなどをすべて一人でしなければならなかった。朝五時前に起きて家事に取り掛かり、夜、床に就くのは十一時頃であった。

 我ながらよくやったと思うが、それでも、朝、職場に遅刻するのはしょっちゅうだった。夕方、保育園の迎えの時間になれば、どんな重要な会議の途中でもそれを中座して帰らなければならない。生徒の家庭訪問も、家への持ち帰り仕事もできない。そんな中で、私は周囲の先生の有形無形の支援に頼って仕事を続けていたのだった。

 しかしこのような事情は特別に珍しいことではない。年老いた親や病弱の子どもを家に抱えている先生もある。自分自身の健康を害している先生もある。女性の先生で、乳児の面倒を見なければならなかったり、家事一切を引き受けたりしている人も多い。

 このように、先生によって個人的な事情も様々であれば、教育に対する考え方や、教科指導、生徒指導の力量も様々である。そのような先生が集まって学校を作っている。

 熱血先生は魅力的だし、教育に関する理想論はいくらでも言える。しかし、多様な職員と多様な生徒からなる学校では、現実に依拠しない理想論はやがて破綻する他ないのだ。

学校の日常風景

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  離任式のセーラームーン 人間ってすごい!と思えるしあわせ 組織体としての学校 

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          教育現場から について


 当時、学校でのいじめや不登校生徒の増加など、教育に関わるさまざまな問題がマスコミをにぎわせていたが、その責任の大半は文科省をはじめとする教育行政にあると私は考えていた。

 その最も象徴的な存在が、生徒に過重な負担を強要し、生徒を指導する教師が教師が自主性を発揮する余地もないほどがんじがらめに教育現場を縛り付けている学習指導要領である。

 それに加えて、文科省→教育委員会→校長→現場教員という上意下達による管理主義的な学校運営や、世論やマスコミを過度に恐れての事なかれ主義も現場教師の自主性や責任感を削いでいた。さらに、一学級の生徒数の多さに象徴される劣悪な教育条件も問題だったはずである。

 ところが、文科省はそういう本質を見ようとせず、何か深刻な問題が起こると、場当たり的な対策を乱発するばかりだった。それで迷惑するのは現場である。それはその後も改善されていない。これでは教育はますます荒廃するばかりだ。

教育現場から

  輪番制の意義  学識経験者追放論  矛盾を糊塗する方法

  居直るべし  いじめ論議は慎重に  式場の日の丸  校長機関説

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               輪番制の意義


 二、三年前の事である。他府県のある学校から一人の先生が本校へ視察にきた。三十代の後半だというその先生は、本校の先生との雑談の中で『私、この年で英語科の主任に任命されましてね、大変なんですよ。』と言ったそうだ。いかにもその口ぶりが自慢気だったと、後でひとしきり話題になった。

 たぶん彼はその実力を評価されて、校長から英語科の主任に任命されたのだろう。それが彼の誇りであり、彼は校長の期待に応えるべく、英語の先生を叱侘激励しているに違いない。たしかにあの年では年上の先生もいるだろうから大変だと皆が同情したのだった。

 滋賀県の場合は、教科主任はたいてい年齢や実力に関係なく、その教科の先生が輪番で勤めている。別に何かでそう決まっているわけではないが、私の知っている学校はすべてそうだった。この点については校長が口をはさんだという話も聞いたことがない。教科主任には法律上の規定がないからだろう。

 このように教科主任を決めることのメリットは、教科指導においてその教科の各先生の独自性と平等が保証されることだ。教科主任はあくまでも各先生の間の連絡調整役に過ぎず、教科指導の内容や方法に関して指示を与えたり命令したりすることはない。

 学校に縦割り的な管理が強化されつつある今、こうした教科指導の独自性の保証は貴重である。最近、滋賀県の高校の有名大学進学率は四十八都道府県の中で下から二番目だという話を聞いた。だから教科指導のあり方を見直そう、教科主任の任命制だ、などとならないようにと願っている。

教育現場から

  輪番制の意義  学識経験者追放論  矛盾を糊塗する方法

  居直るべし  いじめ論議は慎重に  式場の日の丸  校長機関説 

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               学識経験者追放論


 教育制度を改めたり教育過程(カリキュラム)を改めたりする時には、たいてい『審議会』が設置されて『学識経験者』がその委員に任命される。しかし、今日のような複雑な教育課題を達成する上でそういうやり方が本当に有効であろうか?

 と書くと、大方の人は『それは自然な方法だ。それ以外にどうしろというのか。』と言うだろう。しかしこれは決して自然な方法ではない。こういうやり方は、教育のすべてを一元的に管理しようとする文部省の意図によるものだと私は思っている。

 文部省がこのようなやり方を好むのには二つの理由があるのだろう。そのひとつは、学者の権威を利用して文部省の教育政策に権威を付けることであり、もうひとつは『教育のシロウト』を利用して官僚がコントロールしやすい条件を作ることである。

 私は、たとえば立派な業績を上げた数学者は数学教育の策定に関わるべきではないと思う。少なくとも小・中・高校の数学教育を論じるには不適切だ。なぜなら、彼は優れた才能を持っていたからこそ立派な数学者になったのであり、ごく平凡な大多数の生徒を理解できないだろうからである。現実の生徒を理解しないで、理想だけでものを言えば教育は混乱する。彼はせいぜい参考意見を述べるだけで我慢すべきなのだ。

 そういう意味で教育制度や教育過程を決めるのは生徒をよく知っており、学問体系についてもそれなりの知識を持っている者、つまり現場の教員が最適だと私は思う。私たちにはそれだけの経験と能力があるのだ。

教育現場から

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  居直るべし  いじめ論議は慎重に  式場の日の丸  校長機関説 

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              矛盾を糊塗する方法


 NHKの番組の中で、国立教育研究所の某氏が『学習指導要領で示された内容はその教科で教えるべき事柄であって、全ての生徒に理解させるという趣旨のものではない。理解できるのは生徒の三割ほどであろう。』という驚くべき発言をしたという。

 私はこの番組を見ておらず前後の文脈がわからないが、この部分から判断する限り『わかる者だけわかればいい。落ちこぼれが出るのは当然だ。』という意味にとれる。以前から文部省の本心はこのあたりだろうと思ってはいたが、こうあからさまに言われると、あまりの衝撃に呆然としてしまう。

 新教育課程で、高校理科の各科目(物理、化学、生物、地学)は、A、Bの二系統に分けられ、どちらかを選ぶことになった。そのうちA系統の方はトピックスの寄せ集めで、科学本来の論理性も系統性もない。文部省は科学技術の発展に対応したものだとか、生徒の興味関心の多様化に応えるものだなどと言うが、それはあくまでも建前に過ぎない。

 実際は、小中学校教育の破綻によって高校で系統的な学習をするだけの基礎力のない生徒が増え、このような内容でしか授業が成立しなくなったためである。つまり、詰め込み主義、切捨て主義の小中学校教育の矛盾を糊塗するためのものなのだ。表面上、科学技術の発展に対応するという看板を掲げてはいるが、実質的には科学教育の放棄である。

 いままで文部省はすべての矛盾に目をつむってきた。ところが、もはやそれではどうにもならなくなったので、矛盾に覆いを掛け、その覆いに花を飾ろうということらしい。

教育現場から

  輪番制の意義  学識経験者追放論  矛盾を糊塗する方法

  居直るべし  いじめ論議は慎重に  式場の日の丸  校長機関説

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               居直るべし


 大河内君の自殺に関わって、中学校の担任の先生の手記が教育委員会から公表された。そこにはいじめを受けていた大河内君の立場や苦しみに気づかず、自殺を未然に防止できなかったその先生の自責の念が切々とした文章で綴られていて、胸を打つものがあった。しかし私はこの手記を読みながら、何か釈然としないものをも感じたのである。

 そもそもこういう手記が教育委員会から公表されたこと自体が不愉快だ。これではまるで担任の先生に責任を転嫁して始末書を書かせ、それを公表して彼女を晒しものにするに等しいではないか。しかも、教育委員会の指導によると思われるこの手記が、彼女の真情をそのまま反映しているという保証はない。彼女にはこの手記に書くに書けない数々の無念の思いがあったのではなかろうか。

 手記を読むと、事件はまるで担任の先生の怠慢によって起こったかのような印象を受ける。しかし本当にそうだろうか。これだけのことが起こる背景にはかなり荒廃した学校の状況があったはずだが、そのとき学校全体はどう対応したのか、教師集団はどのように彼女をサポートしたのか。そうしたサポートもなく、彼女自身が孤立無援の状態で他の問題に振り回されて大河内君にまで手が回らなかったということは充分考えられることだ。

 しかし、仮にそうであったとしても、こうして手記を公表した以上、それ以外の余計なことはしゃべるなという圧力がかかっていることが予想される。かまわない。居直ってすべてをしゃべればよいのだ。それが自分自身と教育を守る道である。

 教育現場から

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               いじめ論議は慎重に


 最近、学校でいじめられた中学生が自殺するという事件が連続して起こった。一件は中一の男子生徒、もう一件は中二の女子生徒である。しかしその内容は昨年の大河内君の場合とは少し違うようだ。私は新聞報道程度のことしか知らないので断定的なことは言えないが、特に女子生徒の場合、いじめがあったことは間違いないにしても、自殺の原因はむしろ人間関係のトラブルという方が適切ではないかと思われる。

 何をいじめと呼ぶか、それは人それぞれである。たとえば『本人がいじめられていると感じるならそれはいじめだ』という考え方もあろう。それはそれで一つの見識だが、それを『いじめ』と呼べばその相手は加害者という烙印を押されることになり、彼は社会から指弾されるばかりか、世間がそのことを忘れた後も一生十字架を背負って生きていかねばならない。まだ精神的に不安定な年代のこどもにとってそれは大変なことだ。

 世間一般の人には実感しにくいかもしれないが、教師として多くの生徒に接していると時には被害者意識が異常に強くて他人の善意の忠告まで『いじめ』と感じるような生徒に出会うことがある。彼らはそれだけ苦しんでいるのだから、教師としてその訴えを親身に聞いてやらなければならないのは当然だが、彼らのことばを額面通りに受け取ってその相手をいじめの犯人と決めつけるわけにはいかない。

 今日のように『いじめ』が世間の注目を浴びている時には、『いじめ』の認定にはよほど慎重にならないと取り返しのつかないことになりかねないと危惧されるのである。

教育現場から

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              式場の日の丸


 この四月から、新教育課程への移行に伴って、入学式や卒業式での国旗の掲揚が義務付けられた。しかしそれでも私は教育の場への国旗の持込みに反対である。なぜか。

 それは、一般に言われているように、日の丸に侵略戦争や植民地支配の旗として用いられた暗い歴史があるからではない。そういう歴史はイギリスのユニオンジャックにも、アメリカの星条旗にもある。国旗が国家を象徴するものであり、過去に理想的な国家がなかった以上、どの国旗も多かれ少なかれそのような血塗られた歴史を背負っている。

 私は国旗が日の丸だから悪いと言っているのではない。日の丸であれ何であれ国旗を学校の式場に持ち込むのが悪いと言うのだ。

 式場に麗々しく飾られた国旗は、その場が国家によって支配されていることを表わしている。つまり、教育の主体が国家であることを示しているのだ。そして、国旗への敬礼を要求することは、そのような教育のあり方への屈服を強要することに他ならない。しかし、教育は国家によって管理されてはならないのだ。教育権は社会にあって、国家から独立していなければならない。それが憲法や教育基本法の精神なのである。

 さらに、式場の日の丸は国家に特別の価値を認めることをうながし、国家への忠誠や従属を要求する。国家というものを独立した個人の契約の体系としてとらえる自由主義の伝統がある国ならともかく、国家を民族共同体として、個人を超越した価値を持つ実体であるかのごとく把えがちな日本では、それは特別に危険なことだと思うのである。

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               校長機関説


 県内のある高校でのできごとである。一月中旬に校長が卒業式での君が代斉唱を指示した。それに教諭全員が反対し、その後何度も話し合いが持たれたが論議は平行線をたどった。そこで校長は式の前に君が代のテープ演奏を強行し、それに反発した二十数人の職員が『君が代反対』のプラカードを掲げるなど抗議の意志を表明した。また教師の一人が校長室前の廊下に君が代反対の意思を署名入りで大書したという。(朝日新聞)

 学習指導要領の改訂にともなって学校の式典での君が代斉唱が義務化された。そして教育委員会がその実行を強力に迫っている。この校長にもそういう圧力がかかっていたのであろう。しかし、その学校の教諭全員が反対しているような事を校長はなぜ強行しなければならないのか。一カ月以上に渡る話し合いでなお変わらない教師達の強い意志を権力的に抑えることが正しいことなのか。

 校長はまず生徒や教師達の考え方を大切にし、意見の違いがあってもそれを権力で抑えるべきではない。たとえ教育委員会の意に反しても、だ。それが教育者の立場である。

ところが現実には、ほとんどの校長は教育委員会の指示を忠実に実行する執行官として教育行政の一機関に成り下がっている。それは今回の問題に限らず、日常の学校運営のあらゆる局面に及んでいるのである。そこに今日の教育の深刻な問題がある。

 この校長が落書きについて『書いた内容よりも、落書きしたという事実を残念に思っている。もっと民主的な方法で議論して欲しかった』と言っている。盗っ人猛々しいとはこのことだ。

教育現場から

  輪番制の意義  学識経験者追放論  矛盾を糊塗する方法

  居直るべし  いじめ論議は慎重に  式場の日の丸  校長機関説 

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              平成風景点描 について


 私が少年期から青年期を通じて過ごした昭和は「激動の時代」などと言われたが、それに比べれば平成時代は「停滞の時代」とでも言えそうである。人々はそれなりに安定した生活を営んでいて、何はともあれ、それはとりあえずは好ましいことだと、私は感じていた。

 しかし、具体的な現実を見てみれば、気の滅入るような不愉快なできごともあり、このままでは先が思いやられるというようなできごともあった。そしてそれらの中には、相も変わらぬ日本社会の体質に根ざしていると思われるものや、旧来の社会システムや価値観が崩壊したのに、それに変わるべき新しい価値体系がまだ見いだされていないために生じた混乱などが複雑に混ざり合っているようである。

 しかし、この文章はそういう社会学的な考察ではなく、私が接した人々の姿や、身近に見聞きしたできごとのいくつかを点描し、それに若干の感想を添えたものである。

平成風景点描

  草むらの凶器  赤ちゃんに缶コーヒー  山が消えた  無礼な奴

  横暴な客  不信の社会  哀しき大道芸

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              草むらの凶器


 芹川土手の草刈りをしていた私は、生い茂った草の中に朝露に濡れたミカン箱大の段ボール箱を見つけた。荷造り用のビニール紐でくくってあってずっしりと重い。また誰かがガラクタを捨てに来たのだろうと腹を立てながら、私はその箱を持ち上げようとした。

 すると、段ボールの底の部分が腐っていたらしく、中から鋭く割れた何枚ものガラスの先端が突き出してきて、私は危うく手を切るところだった。もう少し勢いよく持ち上げていれば、何十枚ものガラスが私の足を直撃していただろう。いや、私ばかりではない。急斜面の土手の下の方では他にも何人もの人が草を刈っていたから、そのガラスは彼らの頭上に降り注いだかもしれないのだ。私は一瞬肝を冷やした後、腹わたが煮えくり返るような怒りを覚えた。

 毎年、草刈りをするたびに無神経に捨てられた空カンの多さに憤慨する。が、それはまだ許せる。空カン以外にもいろんな物が捨てられていて、去年はベビーバスや小型テレビが無造作に転がっていた。ベビーバスを捨てた人は、一応家庭も持ち子育てもしている筈で、いわば一人前の社会人である。その社会人としての生活とベビーバスを捨てるという行為がどうつながるのか、その子育てがどんなものなのか、気になるところだ。

 それでもまだ許そう。ベビーバスなら危険はないからだ。しかし、割れたガラスはそうはいかない。捨てた本人は自分の都合しか頭になく、こういう捨て方がいかに危険か考えてもみなかったのだろうが、エゴイズムも鈍感さもここまで来れば犯罪である。

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              赤ちゃんに缶コーヒー


 ある時、ゲーム機などがおいてある二十四時間営業のセルフストアーに入って驚いた。自動販売機の前のテーブルで、赤ちゃんを連れた若い母親がほ乳ビンに缶コーヒーを入れているのだ。いつもの事かどうかは知らないがこれは余りにひどい。よほど声をかけようかと思ったが、近くから恐いヤーサンでも出てきそうな気がしてできなかった。

 パチンコ屋に入ると、タバコの煙がもうもうとしている中で幼児を背負ってパチンコを弾いている母親をよく見かける。幼稚園くらいの小さな子供達がつまらなさそうに台の間を歩き回っていたりもする。タバコの煙の中で育った幼児の健康がどうなるのか、子供らしい遊びも出来ず、賭事に一喜一憂している大人に囲まれて所在ない時を過ごす子供達の精神的な健康がどうなるのか、考えるだけでも痛ましいことだ。

 しかし、パチンコ屋でトラブルを覚悟してまで声を掛ける勇気は私にはない。それに声を掛けても見ず知らずの私の言うことをきいてはくれまい。私には何もできないのだ。それが歯がゆくもあり、後ろめたくもある。

 ではどうすればよいのかということだが、これがなかなかむづかしい。法律的な規制は効果があるまい。仮に子供連れのパチンコを禁止しても母親は子供を家に残してパチンコ屋に行くだろう。キャンペーンも無駄だ。本当にきいてほしい当の母親は耳を貸さず、神経質な母親が過剰反応して育児ノイローゼが増えるだけだろう。

 結局、平凡なようでも、互いに声を掛け合える地域社会を作るしかないのだろうか。

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              山が消えた


 私の通勤路は水田が開けた中を通っているが、その途中に直径百メートル、高さ十数メートルほどのお椀を伏せたような山があった。水田の中にポツンと一つ孤立した山のあるのが不思議で、私はそれが古墳か何かではないかと思っていた。

 ところがそうではなかったらしい。ある日、この山の木がすっかり切り倒された。その少し後にこの山の頂上にショベルカーを見かけたのだが、その日からみるみるうちに山は削られ、またたく間に完全な平地になった。そして、今ではそこに広い教習コースを持った自動車学校ができている。

 こんなことをして本当にいいの?と思う。私は数年間その近くの道を走っていただけだが、それでもこの山には愛着があった。まして、地元の人たちはこの山がなくなったことに、相当の寂しさを感じているはずだ。

 小学生の頃、日本は山国で耕地面積が狭いと教えられて、それなら山を切り崩して海を埋めればいいではないかと思っていた。まさにそういうことが行なわれたのだが、もう小学生ではない私の思いは複雑である。

 私の勤務校の近くに伊吹山という山があって、学校の窓からも見えている。標高千四百メートル、県内ではいちばん高い山だ。ところがその山で石灰岩の採掘が行なわれており、山の片側の斜面がザックリと削り取られたようになっている。日々その姿を見ると痛々しさを感じざるを得ない。将来この山がどうなってしまうのかということも心配だ。

 これも狭い日本にあっては現実離れした感傷なのであろうか。

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              無礼な奴


 県立美術館で染色家の志村ふくみさんの紬織の作品展が行われており、今日はその一環として彼女の講演会があった。私はその方面には興味がなく詳しくは知らないが、彼女は染色界の第一人者で、人間国宝にも指定されているのだそうだ。妻が講演を聞きたいというので私は子守り役としてそのお供をした。講堂は超満員で、あふれ出した聴衆は前の廊下から近くの階段まで埋めていた。

 講演の後、質疑応答が行なわれた。質問者の大半は志村さんのファンらしく彼女を『先生、先生』と呼んでいた。ところがひとりの若い男性は彼女を『おたく』と呼び、毒気を含んだ批判的な質問をしたらしい。私はその場にいなかったが、妻は『納得できない部分を批判するのはいいが、人生の大先輩なのだからそれなりの敬意を払った物の言い方をすべきだ』と憤慨していた。

 私もたしかにその通りだと思う。しかし、振り返ってみれば私自身も若い頃には同じような言動をしていたものだ。それは権威を背にしたものへの反発であり、それに屈しない自分を顕示しようとする虚勢、いわばゆがんだ自己主張である。そういう屈折した言動を一概に否定すべきではないが、かといって他人を踏みつけにする行為が若さという免罪符によって許されるべきでもない。

 最近でも私は有名な政治家や文化人をバカ呼ばわりしている。私自身は彼らの人格を全否定しているわけではなく、彼らの特定の部分を批判しているつもりなのだ。が、他人からは同じに見えるかもしれない。その点は常に心すべきだと自戒したのだった。

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               横暴な客


 あるスーパーでしなびたホウレンソウ一把が二九八円。安値の時なら五〇円程度で買える量だから、たしかに高い。しかし例年八月の末は野菜が品薄になる時期であり、しかも今年はこの日照り続きだからしかたなかろうと思っていたときのことだ。私のすぐ側で三十才前後の女性が『どういうこと? この店は暴利をむさぼっているのと違う?』と、連れの女性に話しかけた。不愉快だった。そばには店員もいて、彼もそれを聞いたはずだ。私はその店員から顔をそむけた。

 最近、消費者の自覚が高まり、商品知識も向上して、不当な販売に対しては批判ができるようになってきた。これは結構なことだ。しかし今日私が見た光景はそれとは似て非なるものである。彼女達は愚かで横暴な消費者の見本と言うべきであろう。

 そもそも『お客様は神様である』と考えている人が多い。そういう人は店の商品を乱暴に扱って平気であり、しかも自分の買った品物にちょっと傷があると文句を言う。しかし、誰が『お客様は神様だ』などと決めたのか。それは、あくまでも、そのような客あしらいをした方が商売がうまくいくという店の側の都合だろう。我々客が自分をそのように扱えと要求できる筋合いはどこにもない。

 さらにお金を扱う商売人は卑屈であって当然だと、まるで江戸時代の士農工商意識をそのまま引きずっているかのような人もある。これでは店と客の信頼関係など成り立ちようがない。客はもう少し賢く謙虚になるべきだろう。客は『売ってもらう』存在、店は『買ってもらう』存在だと私は思っている。

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               不信の社会


 あるシティーホテルでのことである。夜の九時頃、私は部屋に帰ろうとしてドアが閉りかけたエレベーターにあわてて駆け込んだ。そのとたん、中に乗っていた小学校五、六年生くらいの女の子が驚いたような顔で私を見て、弾かれたように外へ飛び出した。

 たぶんその女の子は常日頃から大人の男性と二人だけでエレベーターに乗り合わせてはいけないと教えられていたのだろう。だから反射的に私から逃げたのだ。

 しかし結果的には、私が先に乗っていたその子を追い出したことになる。私は上昇していくエレベーターの中で、その子に悪いことをしたという思いとその子の行動への腹立たしい思いが入り混った複雑な気持ちを噛みしめていた。

 幼児や小学生を対象とした誘拐や変質者的な犯罪が多発している今日、子供たちが自分の身を守るにはこのように行動する他ないだろう。不特定多数の者が出入りし、酔客も多い夜のホテルではなおさらだ。私も自分のこどもにそのように教えている。が、それでもなお、このできごとは不愉快だった。

 しかし、不愉快という以上に重大な問題は『見知らぬ人は警戒せよ』と教え続けることが子どもたちにどんな人間観を持たせるか、そしてそのような子どもたちが社会を作るときこの社会がどうなるかということである。その深刻な影響を考えるとき、私は多少の危険を犯してでも子どもたちに人を信じることを教えたい、とも思う。

 もちろん、自分の子どもを前にした時、それは容易なことではない。それでも、せめてその気持ちだけは失いたくない。

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              哀しき大道芸


 今、彦根の商店街は『えびす講』という年末恒例の大売り出しの最中である。そこで私もこどもを連れて出かけてみたら、ちょうど『懐かしの大道芸大会』というアトラクションが始まるところで、たくさんの見物人が集まっていた。そこで私たちも露店のテントが立ち並ぶ冷たいコンクリートの道路に腰を下ろしてそれを見物することにした。

 始めに登場したのは、半ば頭の禿げた風采の上がらぬ中年男である。彼は風呂用の洗い桶をとりつけたヘルメットをかぶり、道路に転がした同じ型の桶を蹴り挙げてヘルメット上の桶で受け止めるのだ。うまくいけばスポッとはまるのだがけっこう失敗も多い。二十個ほどの桶を蹴り上げた中での成功率はほぼ三分の二くらいだった。洗い桶という生活臭ふんぷんたる小道具、それを付けたヘルメット姿の異様さ、そしてちょっと低すぎる成功率など、何から何まで哀しかった。

 疲れきったような姿勢で道端に座っていた女性が次のだしものの主役だった。厚化粧のため表情も年齢も分からない。自分の番になると彼女はきびきびと踊りだしたのだが、私のまぶたの裏には先ほどまでの彼女の疲れきった様子が残っていて、その活発な動きがむしろ痛々しく感じられた。

 私が小さい頃見た『大道芸』は華やかに輝いて見えたものだが、あれは錯覚だったのだろうか。それとも私たちの目が華やかなものに馴染みすぎたのだろうか。あるいは今日の『大道芸』が水準以下だったのだろうか…。私はこどもに見せてはならぬ物を見せたような後ろめたい気分で帰途についたのだった。

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              ふしぎ大好き について


私は小さい頃から理科が好きで、その延長のような形で理科の教師になった。そして今でも自然現象に素朴な「ふしぎ」を感じることが、自然を理解するための第一歩だと感じている。

 ところが、その「自然」認識の結果として発達した科学技術を応用して、私たちの身の回りには便利な機器があふれかえり、それにともなって私たちはむしろ「自然」から遠ざかってしまったようだ。その結果、私たちが「ふしぎ」を感じる機会が減っているばかりでなく、「自然」が厳然とした法則性に貫かれているのだという認識すらも薄らぎつつあるように感じる。

 理科教育は、あれやこれやの公式や科学的知識を詰め込んだり、科学の成果を賛美したりすることであってはならない。当時はオカルトブームで、エセ科学が流行っていたものだが、日常生活の中で科学的にものを考えることができるようにすることこそ、科学教育の課題だったはずである。そんな思いを書いたのがこれらの文章である。

ふしぎ大好き

  ふしぎ大好き  水槽の生態学  摂氏2度で水が凍る?

  UFOの正体見たり  失われた不思議  1PPM  プルト君のウソ

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               ふしぎ大好き


 私は高校の頃から、赤色と黄色を混ぜるとなぜオレンジ色になるのか不思議に思ってきた。赤色は波長の長い光が、黄色は波長の短い光が目に入って、それぞれの色に見える。これらの光を混ぜても、中間程度の波長であるオレンジ色の光にはならないのに…と。

 一見バカげたこの疑問も、考えてみるとたいへん難しく、物理、化学、生物学など広範な領域に関わっている。数年前『日経サイエンス』という雑誌でこの問題の難しさが取り上げられているのを見て、高校時代からの私の疑問も科学にとって本質的なものであったと、逆に自信を深めたほどである。

 このように、私たちの身の回りには不思議なこと、わからないことがいっぱいある。たとえば、空の雲一つを取ってみても、なぜ入道雲があれほどくっきりとした輪郭を持っているのか、いわし雲やすじ雲がこの広い空でなぜあれほど繊細で見事な形を保っていられるのか、不思議でしかたない。

 昨年、びわ湖に近い山上から見おろしたとき、湖面に何本もの直線模様が見えた。ちょうど、学校のグラウンドにでたらめに引いた石灰のラインを、校舎の屋上から眺めているような感じである。最初はそれが何かわからず超自然現象のようにさえ思われたものだ。が、よく見ていると、小型の漁船が通り過ぎる毎に、その航跡として直線が一本ずつつけ加えられていくのだった。

 しかし、あの多数の航跡ができるのには、何十分も何時間もの時間がかかっているに違いない。そんなに長い間、航跡が消えずに残っていることが、すごく不思議である。

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  ふしぎ大好き  水槽の生態学  摂氏2度で水が凍る?

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              水槽の生態学


 私はガレージに置いた水槽で二十匹ほどの金魚を飼っている。ただしガレージといっても生け垣で囲まれた庭の一角に半透明のアクリル板の屋根をつけただけのもので、水槽といってもクーラーボックス用の発泡スチロール箱に水をはっただけのものである。

 さて、この水槽の水はすっかり入れ替えても一週間程でどんよりと緑色に濁ってくる。たぶん植物性のプランクトンが増えるからだろう。それ自体は金魚にとっては無害だろうが、その濁りは水の汚れの指標でもあるに違いない。そう思って、私はできるだけ頻繁に水槽の水を替えてやるように心がけていた。ところが、それだけ気を使っていても金魚は一匹、また一匹と死んでいくのである。

 そんな時、私はふと気が付いた。緑色に濁るのは、プランクトンが光合成をしているからだ。その時に放出する酸素は金魚の呼吸を助けるはずである。それなら水が濁っても替えない方がいいのではないかと。そこで早速その通り実行したら、それ以来、金魚は一匹も死なずにすんだのである。私は自分の発見に得意になっていた。

 ところがそれは事実の半面でしかなかったようだ。先日、水槽を掃除して水を半分入れ換え、その時汲み出した水を放置しておいたら、初めは緑色だったその水が次第に澄んでいったのである。どうやら金魚がいないとプランクトンも生きていられず、死滅してしまうらしい。金魚が呼吸によって放出した二酸化炭素がプランクトンの光合成を助けていたのだ。

 金魚とプランクトンが相互に依存しあって絶妙の生態系を作っていたのである。

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          摂氏2度で水が凍る?


 最近、初霜のニュースが聞かれるようになった。やがて、初氷の便りも届くだろう。

 この季節になるとなつかしく思い出すことがある。それは私が『最低気温が零度にならなくても氷が張るのはなぜか』という疑問に悩んでいたことだ。この季節、初氷の便りと共に報じられる最低気温は、たいてい摂氏二度か三度なのである。『水は摂氏零度でなければ凍らないはずなのに、どうしてこんな温度で初氷が張るのか?』というわけだ。

 私は何年もその答えを見い出せずにいた。地面にたまっている水には何か特別な成分が混じっていて、摂氏二度や三度でも凍るのだろうか? そんなバカな。モル凝固点降下といって不純物が混じれば氷点が下がることはあっても、上がる筈はない。私は他にもあれこれの可能性を考えてみたが、どれもあり得ないことだった。何人かの人にも聞いてみたが、気温が氷点下にならなければ水が凍るはずはない、ニュースが間違っていたのではないかなどと、全く相手にしてもらえなかった。

 私がこの疑問に答えを見いだしたのはずいぶん経ってからだった。気温は地上一・五メートルの百葉箱の中で測る。放射冷却で冷えた地面と百葉箱の高さでは温度差があるのだろう。それに地表にたまった水は気化熱のために周囲の地面より温度が低くなるのかもしれない。私はこの一大発見に興奮し生徒達にも話した。そして『自然に疑問を持ち、それを解くのは実に楽しい』と。

 さてこれに関連して、子供の頃冬が寒く感じられたのは身長が低かったからだろうかとも思ったが、こちらの方はよくわからない。

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                                        UFOの正体見たり


 二、三年前のことである。夜遅く犬を散歩させていた私は、空に不思議なものを見つけた。満月と同じ程度の大きさの、しかし、満月よりはずっと暗い円形の光が地平線に近いあたりを動いていくのである。大きさや動きから判断して、星でも飛行機でもない。

 何だろうと目を凝らしていると、その光はややカーブを描きながら、角度にして三十度ほど動いて消えた。ところが、しばらくすると先ほどとほぼ同じ光の円盤が、先ほどと同じ軌跡を描いて動き、また同じように消えたのである。それからしばらく、何度も何度も同じことが繰り返された。

 UFOの大編隊か! と興奮して見つめていた私は、そのうちに不思議なことに気づいた。夜空のあちこちに星が出ているのに、そのあたりには全く星が見えない。どうやら雲が星を隠しているらしいのだ。ということは、あのUFOは雲より下の相当低いところを飛んでいるに違いない。

 と、そこまで考えてみて、私はハッと気づいた。あの光は地上からの何等かの光が雲を照らしているのではあるまいか、と。そこで私は急いで近くの小高い丘に登ってみた。そこからは彦根市街が一望の下に見渡せる。すると予想通り市街地のはずれのあたりから回転する二条の光がV字型に夜空へ伸びているのだ。たしかあのあたりにはパチンコ屋があったはずだから、その屋上に備え付けられた回転するサーチライトなのであろう。

 謎の光の正体を確かめた私は、それがUFOでなかったことにがっかりしたが、同時に自分の発見を誇らしくも感じたのだった。

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                                        失われた不思議


 いつだったか駅のホームで電車を待っていたときのことである。たくさんのコンテナーや石油タンクを連結した長い貨物列車が目の前を通り過ぎていくのを見て、私は『すごいねえ、こんなたくさんの貨車が一台の機関車で引っ張られているんだよ。』と、こどもたちに言った。それは私自身の純粋な感動からだったが、こどもたちに積極的な反応を期待する気持ちもあったのは事実だ。ところが彼らは何の反応も示さなかった。

 無理もない。私は小さい頃に荷車やトロッコを押した経験から、あの機関車の力がどんなに凄いものか実感することが出来る。けれど、こどもたちは荷車を押した経験もなければ重い荷物を運んだ経験もないのだ。それにそういう凄い働きをする機械類を普段から見慣れているので、特別に機関車に感動する理由もないのだろう。時代が違うのだ。

 思えば私の小さい頃はまだラジオがしゃべるのが不思議で、ラジオの中には小さな人間が隠れているのだと信じているこどもがいる一方、コイルだの真空管だのといったパーツを買い集めてラジオを組み立てるこどももいて、彼らは得意気にその経験を語った。私達にとって自然も機械も内部が見えるホワイトボックスだったのである。

 ところが今、私達の周りにはテレビやコンピューターといったハイテク機器があふれていてそれらはすべてブラックボックスなのだが、我々は何の不思議も感じずに使っているのである。

 この不思議さや感動の失われた世界が、私には寂しく、また人間の存続に関わる危機を秘めているように思われて仕方がない。

 ふしぎ大好き

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                                       1PPM


 大気中や水中の有害物質の量をあらわす単位に、PPMというのがある。

 一PPMといえば百万分の一のことで、たとえば、大気や水の全体量を一メートルの長さであらわせば、一PPMの物質は千分の一ミリ、顕微鏡でやっと見える長さにしかならない。このように一PPMといえばきわめて微少な量であるから、この程度の汚染はたいしたことがない、と言えば、おそらくたいていの人は納得するだろう。

 ところが、である。全体量を一立方メートル、およそお風呂一杯分の水であらわせば、それに対する一PPMは、一立方センチメートル、およそ角砂糖一個分の大きさになる。こうなるとずいぶんイメージが変わってしまうもので、一PPMの有害物質を含む水を飲めと言われれば、たいていの人はためらってしまうに違いない。

 このような印象のずれは、片方は直線という、いわば一次元で表現し、他方は立体といういわば三次元で表現していることから生じる。論理的にはどちらも間違ってはいないのだが、一PPMを説明するのにどちらが適当だろうか。もちろん目的にもよるが、普通はより生活実感に近い立体の方がよいということになろう。

 グラフで表わす場合なども要注意だ。一次元の棒グラフは誤った印象を与える可能性が高く、心理的トリックにも使われる。

 実は、私自身もこのことを人に指摘されて初めて気づいた。至るところで数字とつきあって暮らさなければならない今日では、充分に心しておきたいことである。

ふしぎ大好き

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                                        プルト君のウソ


 動燃が制作したプルトニウム利用推進のPRビデオに問題があると、米国のエネルギー省長官がその回収を迫っているそうである。日本国内のビデオに、外国政府の高官がクレームをつけ、回収まで要求するというのはよほどのことに違いない。

 特に問題になっているのは、プルトニウムが体内で吸収されず安全であるとして、プルト君という少年がプルトニウム溶液を飲むアニメシーンだという。

 私自身はこのビデオを見ていないので断定は出来ないが、たぶんごく薄い濃度の溶液で、消化器からの吸収に限定して言えばこのビデオの通りなのであろう。その意味では科学的に正確なのだろうと思う。

 しかし、たいていの人は、飲んでも大丈夫な物質であれば、体外にあればなおさら安全なのだと拡大解釈してしまう。ところが、これがとんでもない誤解なのだ。

 プルトニウムの酸化物が細かい塵となって空気中に浮遊した場合、それを吸い込めば肺の中にとどまって排出されないため、極めて有害だと言われている。なんと、一億分の三グラムで発ガン性を示すというのである。そのような事実をこのビデオは正確に指摘しているのだろうか。消化器からの吸収の有無とその物質の安全性とは別問題なのであるが、このビデオはそれを故意に混同させている可能性がある。もしそうだとすれば悪質だ。

 そういえば、ある科学者が、プルトニウムの放射能はラジウム温泉で有名なラジウムより弱いのだと書いていたが、これなども同列の心理的トリックというべきであろう。

ふしぎ大好き

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  UFOの正体見たり  失われた不思議  1PPM  プルト君のウソ 

                                        日本語の風景  について


 ことばというものは、我々の考えを表現し、人に伝えるためのものだが、それ以上に我々の発想を方向付け、制約するものである。そして、ことばは真実を伝えることもできるが、時には真実を歪め、覆い隠す働きもする。

 そういう欺瞞は、意図的に行われることもあれば、無意識に進行していることもあって、時にはそのことばを発する人間自身が時分のことばに騙されたりもする。私自身も、自分のことばや相手のことばに違和感を感じて、我々は日々使っていることばにたいして、もう少し自覚的であるべきだと感じることがある。

 ここには、日本語の中にある独特の言い回しや、我々が無意識的に使う決まり文句、さらに、外国語の翻訳に当たって生じる意味のズレなど、さまざまな状況で現れた日本語や、我々の発想、さらには日本社会の特質の特質について論じた文章を集めてみた。

日本語の風景

  人という字  いかがなものか  明日に架ける橋  だった症候群

  壮大なるゼロ  尊い犠牲とは?  ふたつの言語観

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                                         人という字


 『人という字を書いてみろ。倒れかかった二本の棒がお互いに支えあっているだろう。人間は一人では倒れてしまう。お互いに支えあって生きていくんだ。』。以前、武田鉄也扮する『金八先生』が、こういうセリフをはいていたのを覚えている。

 しかし、人という字の中に本来そんな意味は含まれてはいない。念のために漢字の字源を調べてみたが、人という字は一人の人間が立っている姿から作られた象形文字がもとになっているらしい。つまり、支えあう人間ではなく自立する人間なのだ。

 誰が言い出したのかは知らないが、こんないい加減な物の言い方も場合によっては感動的に響く。だからお説教にはうってつけだ。ことばというものは論理を表現するものである以上に情緒に訴えるものだからである。しかし、だからなおさら、私はこういうお説教を容認することが出来ない。

 どのことばにも歴史的・文化的な重みを持った本来の意味があるのに、それを無視して自分の都合がいいように説明するのは、そのことばを踏みにじることである。しかもその一方でことばの持つ権威だけは利用しているわけで、卑怯という他ない。

 では字源や語源の解釈が正確であれば、それを根拠としてお説教するのは妥当であろうか。いや、それもまた間違っていると思う。ことばは一定の時代背景のもとで作られ、特定の価値観や社会意識を含んでいるからである。語源に頼ってお説教するのは、ことばの裏にある古い社会意識を無批判的に押し付けることに他ならないのだ。

日本語の風景

  人という字  いかがなものか  明日に架ける橋  だった症候群

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                                       いかがなものか


 最近『いかがなものか』という物の言い方が流行っている。こういう言葉を使うのは年配の人だけかと思っていたら、あるテレビのインタビュー番組で二十代と思われる人も何人かこのことばを使っていた。

 おそらくこの言葉は特定の社会的階層の人たちの間ではずっと以前から使われていたのだろう。それが今日のように一般に流行り始めたのはいつ頃からだろうか。

 私が気づいたのは、佐川献金事件で失脚した政治家の金丸信さんがまだその疑惑を取りざたされていなかった頃、盛んにこの言葉を連発しながら政治を動かしていたときのことである。案外これがきっかけだったのかも知れないとも思う。実際、このことばはアクの強い金丸さんの雰囲気にぴったりだった。

 いかがなものか、というものの言い方は、本来、物事の黒白をはっきりさせず、また相手を直接に否定しないことを美徳とする日本社会の中で、やんわりと相手を批判するときの言い方であろう。ところが、実際には優越した立場にあるものが、相手を見下しているような雰囲気がある。また、問答無用と相手を一刀両断にするような傲慢で冷たい響きをも含んでいる。しかし、一応は丁寧なものの言い方だけに、口角泡を飛ばして反論するわけにもいかない。

 私自身は使いたくもないし使われたくもない言葉だ。私はもっと明解に賛成、反対の意思表示をしあいながら率直な論議をしたいのであ本社会の封建的発想を克服する道だと思う。

日本語の風景

  人という字  いかがなものか  明日に架ける橋  だった症候群

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                                         明日に架ける橋


 あなたが疲れきって無力感にさいなまれている時、私はあなたの味方でいてあげよう。辛く過酷な日々、友達が見つからないなら、私は激流に架ける橋のように我が身を横たえてあげよう。

 ずいぶん古いが、これは私が好きだったサイモンとガーファンクルの世界的なヒット曲"Bridge over the troubled water"の冒頭の部分の大意である。

 ところで原題にある troubled water という言葉を辞書で調べてみると、「あちこちで渦巻くような激しい流れ、激流、濁流」というような説明がある。海峡を流れる渦潮か、嵐の大海原、あるいは大雨の後の洪水のようなイメージである。だからこの曲の題名は、激流に架ける橋とか、荒海に架ける橋とすべきである。

 ところが、この曲の日本語のタイトルは、なぜか『明日に架ける橋』なのだ。これでは何か明るい明日という日があってそれに向かって虹の橋でもかかっているようなニュアンスになってしまう。本当はこんな明るい軽いものではないのに。

 こういう不正確な訳がされているのはこの曲ばかりではない。また題名に限らず訳詞もずいぶんひどい。原詩と訳詞の意味が全く正反対という事も少なくない。

 おそらく訳者は日本人の好みに合わせてこのように訳すのであろう。日本人は現実の奥深さより塗り絵的な単純さを好むようだから、その方が売行きがよいのかも知れない。しかしこういう誤った題名で紹介されてそれを信じ込み、原曲の深い味わいに思いも及ばぬまま聴き過ごす我々は不幸だと思う。

日本語の風景

  人という字  いかがなものか  明日に架ける橋  だった症候群

  壮大なるゼロ  尊い犠牲とは?  ふたつの言語観

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                                       だった症候群


 オカルト本を読んでいると、『月はUFOの基地だった』とか『ベツレヘムの星は異星人の宇宙船だった』などというように、『××は○○だった』という表現によく出会う。もちろん本文中にもあるし本の帯のキャッチコピーにもよくある。また、今、具体的な事例は思い出せないが、怪しげな健康食品や眉ツバものの医学書の宣伝文句にも『××(病気名)の原因は○○の不足だった。』というような表現をよく見たように思う。

 こういう表現が好まれるのは、『である』と現在形で書くと、その言明の内容が事実を表わしているのか判断を表わしているのかが曖昧になって表現として弱くなるが、『だった』と過去形で書けば既に確定された事実というニュアンスが強くなるからであろう。だから主張の根拠が薄ければ薄いほど、こう書いてそれが疑うことの出来ない真理であるかのような印象を与えたがるのだ。さらにこの表現には『なんと○○は××だった!』と意外性を強調する要素もあるので、注目度を高めて珍説を売り込むには一石二鳥なのであろう。こういう姑息な姿勢を、私は『だった症候群』と名付けている。

 症候群と呼ぶのは、この種の著作にはそれ以外にもいろんな症状がみられるからだ。たとえば自分の論旨に都合のいい事実だけを取り上げてそれ以外は無視するとか、定性的な論議に終始して定量的な評価を一切しないとか……。

 こういう症状についてはいずれ詳しく調べてみたいが、とりあえず『だった』を連発するような『こけおどし』のコピーだけは信用しないでおこうと思っている。

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                                       壮大なるゼロ


 どこかのレストランだったか料理店だったかのラジオのCMに、

『グルメを語る次元が違うのよ!』

というのがあった。ちょっとかっこいい言葉だが具体的に何がどうなのかはさっぱり分からない。『次元が違うってどういうこと?』ときいてみても、レストランの関係者もコピーを書いた本人も答えられまい。結局、この店は具体的なセールスポイントが何もないということを告白しているわけだ。

 少し古いが、現在でもカラオケなどでよく歌われる『昴(すばる)』という歌がある。『目を閉じて何も見えず、悲しくて目を開ければ、荒野に向かう道より他に見えるものはなし。ああ、さんざめく運命の星たちよ、せめて密やかにこの身を照らせよ。我は行く、心の命ずるままに。我は行く、はるか昴よ』という歌詞である。

 荒野とか運命とか、スケールが大きく華麗な言葉をちりばめて歌う者のヒロイズムをくすぐる。しかしこの歌には具体的なものは何もない。だから誰もがこの歌を自分の立場に引き付けて解釈することができる。それがこの歌の仕掛であり人気の秘密であろう。私はこの歌に自らを虚構のヒロイズムで飾るしかない現代の組織内人間・企業戦士のマスターベーションを感じる。

 いかにも気宇壮大なことばに出会ったら、その具体的な中身を検討してみるとよい。中身の曖昧なことばや多義的なことばは、無意味であるばかりではなく、情緒に訴えかける危険なことばでもあるのだ。最近、そういう言葉が増えているような気がする。

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                                        尊い犠牲とは?


 今日の新聞に三十三才の女性の『肉親殺された証言にがく然』という投書が載っている。あるテレビ番組で南京事件での日本兵の残虐行為を知り『加害者である自分たちの認識不足が悔やまれる』といい、さらに『当然のような顔をしていま享受しているこの幸せが、多くの尊い犠牲の上に成り立っていることを忘れてはならない』と書いている。

 投書せざるを得なかった彼女の純粋な思いは疑うべくもない。しかし、私はこの文面に納得できないのだ。彼女は『尊い犠牲』というが、南京事件の犠牲者がなぜ『尊い』のか。私は揚げ足取りをしようというのではない。そこをはっきりさせないと、せっかくの投書もお題目になってしまうと思うのだ。

 犠牲者たちが侵略者と戦い、残虐行為をやめさせようと抵抗して、あるいは誰かを守ろうとしてその結果殺されたのなら『尊い』犠牲であるのはわかる。しかし犠牲者のほとんどはごく平凡な一般民衆で、何もわからぬまま一方的に残虐行為の対象とされたのだ。

 では、彼らの存在が私たちに侵略戦争の本質を認識させるから尊いのか。しかし、それでは私たちは再び彼らの無惨な死を利用することになり、彼らを二重に踏みにじることになってしまう。

 投書の主が『尊い犠牲』と書いたのはそのどちらの意味でもあるまい。『尊い』というのは犠牲ということばにつく枕詞(まくらことば)のようなものだろう。枕詞の多用はマスコミの悪影響だろうが、それはリアルな認識を妨げる結果にしかならない。そんなに軽くことばを使うべきではないと思うのだ。

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                                       ふたつの言語観


 長い間、私は『ことば』(特に話し言葉)というものは『本当のこと』を伝えようとして発せられるものだと思っていた。もちろん言い逃れやなんらかの意図を持ってウソをつくこともあるだろうが、それもことばが元来『本当のこと』を伝えるために使われるものだからこそ、それを悪用しようとする企てなのだと思っていたのだ。だから私にとってことばの価値を測る尺度は、話し手の誠実さと、話された内容の真実性であった。私はそれがごく自然な感覚であり、誰もがそう思っているのだと信じて疑わなかった。

 ところが最近、ことばを別の観点から捉える人々がいることに気づいた。つまり、ことばとは自分を守ったり自分の目的にしたがって他人を操る手段だと割り切る立場である。そう考えればお世辞も誇大表現もそれほど気にならない。ことばを世渡りの道具だと考えれば、内容の真実性は二義的なものとなり、個々のことばの価値はその道具としての有用性だということになる。

 政治家の発言や商売上の駆引きなどがそういう要素を持つのは不思議ではないが、それと同じ感覚を日常生活の中の言語観として持っている人たちがいるのだ。もちろん彼らはそれが自然なことだと思っているわけで、そういうことばの使い方になんの疑問も後ろめたさも感じていない。

 これら二つの言語観を両極端として、その間に様々なニュアンスの立場がある。私自身はやはり『本当のこと』を伝えるものとしてことばを使いたいが、それに固執していると人を誤解することもあると自戒している。

日本語の風景

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2023年1月29日日曜日

              文化って何だ について


 私はもともと文学のための文学や芸術のための芸術には興味がなく、我々の社会生活に直結した大衆文化こそが文化の名に値すると思っている。

 そういう私から見ると、古典作品のような評価の確立したものだけをありがたがるような権威主義的な文化志向がある一方で、テレビや週刊誌など、とめどなく低俗科してゆく大衆文化があるという文化の両極化は腹立たしい限りだった。

 そんなことを考えていたこの頃、私は小さいこどもに付き合って、絵本やテレビアニメなどを見る機会も多く、そんな時、いろいろと考えさせられたものである。こどもたちに俗悪な番組は見せたくなかったが、かといって自分がいいとも思わないのに、世間で高尚とされているものを押しつける教育パパのようなこともしたくなかった。

 ここには、当時私がこどもたちと接する中で気になったこと、我々の自然観や社会観にまで影響を及ぼしているのではないかと感じたさまざまな文化現象について論じた文章を集めてみた。

文化って何だ

  いわさきちひろの絵  ドラゴンと龍  不気味な世界  エンタメ殺人事件

  芸術って何だ  『モモ』のどこがいいの?  擬人化の問題点

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              いわさきちひろの絵


 先日、いわさきちひろの絵の展覧会があり、妻と子供たちが観に行った。私も彼女の絵は嫌いではなく、一緒に行きたかったが、仕事の都合で時間が取れなかったのだ。会場で好きなポスターを一枚ずつ買ってやると言われて、長女は赤や青の魚が泳ぐ中に一人の女の子の描かれた絵を、長男は赤いチューリップのそばに座った赤ちゃんの絵を、それぞれ大切そうに持ち帰ってきた。

 私は、いわさきちひろのかわいいきれいな絵を見るたびに、絵って何だろう、芸術って何だろうと思う。それは、絵を描く本人にとって、見る人にとって、さらに社会にとってどんな意味を持つのだろうか。

 芸術とは、日常の実用とは無縁の高尚なものだと考えている人がいる。あるいはまた、それは作者の全人格をかけた表現行為だから、作品は作者の生き様と直結していなければならないと言う人もいる。もし芸術をそのように考えるならば、ひたすらきれいな夢の世界を描き続けた彼女の絵は芸術には分類されまい。そしてそれは結果的に彼女の絵の評価を低めることにつながるだろう。

 私は彼女が共産党の松本善明氏の奥さんだったということ以外、彼女について何も知らない。しかし彼女の生涯が平坦な道のりであった筈はなく、彼女の描いた世界が生身の女性としての彼女自身を表現したものでないことは確かだろう。彼女の心象世界のごく一部を大きく美しく膨らませたものなのだ。しかしそれでいいのだと思う。彼女の美しい夢が私たちの心の底の何かに触れるならば、それはそれで素晴らしいことだと思うのである。

文化って何だ

  いわさきちひろの絵  ドラゴンと龍  不気味な世界  エンタメ殺人事件

  芸術って何だ  『モモ』のどこがいいの?  擬人化の問題点 

              ドラゴンと龍


 私の読んだ外国の絵本の中に、何冊かドラゴンの出てくるものがある。ドラゴンは普通龍と訳されるが、絵本のドラゴンは我々の思い描く大蛇に足をつけたような龍のイメージとは程遠い。図体の大きな四つ足の草食恐竜に、とうてい空など飛べそうもないような貧弱な羽根をつけた姿をしている。

 ドラゴンと龍の共通点と言えば、せいぜいどちらもハ虫類をベースにした架空の動物だということくらいであろう。他にどちらも空を飛ぶということもあるが、ドラゴンは羽根をはばたいて飛び、龍は空を泳ぐのだからずいぶん違う。一体なぜドラゴンが龍と訳されるようになったのか不思議なくらいだ。それでも、何の抵抗もなくドラゴンは龍と訳され続けてきた。絵本なら読者は絵によって原作者のイメージを理解することができるが、一般の書物では読者と原作者のイメージはすれ違ったままで終わりかねない。

 いや、実はこのズレはその姿形だけではないのだ。中国や日本では、龍は特別に優れた力を持ち、縁起の良いものの象徴とされている。それに対してキリスト教文化圏ではドラゴンは邪悪と罪の象徴だそうである。その象徴するものまでがこのようにほとんど正反対であってみれば、ドラゴンを龍と訳して文学が成り立つというのはおかしな話だ。

 昔、第五福龍丸が水爆実験の死の灰を浴びて乗組員が死亡するという事件が起きた時、ベン・シャーンは『ラッキードラゴンシリーズ』という連作の絵を発表した。この名称は船名の直訳ではあるが、彼がドラゴンにどんなイメージを持っていたのか、興味あるところだ。

文化って何だ

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  芸術って何だ  『モモ』のどこがいいの?  擬人化の問題点 

              不気味な世界


 かつてTVで『北斗の拳』というアニメがあった。私は、二、三度しか見たことがないが、絵も内容も気持ち悪く、見るたびに生理的な嫌悪感を覚えたものだ。ところが、こどもたちには相当に人気があったらしい。

 このアニメは題名の通り超人的な拳法の達人が主人公である。そしてその拳法はあくまでも人を殺す武器としての拳法なのだ。主人公が敵と闘って一撃を加え『おまえはもう死んでいる』と言うと、相手はようやくそれに気づいたかのごとく恐怖に顔を引きつらせ、同時に体がボロボロと崩壊していく。その気持ち悪さと言ったらない。

 さて、このアニメは時代背景も場所の設定もよくわからない。一応都市のようなものはあるのだが、すべて荒廃していて、そこには人間の生活はおろか、自然の営みの気配すらない。どうも『核戦争後の地球』という雰囲気なのだ。そう考えてみると、登場人物の肉体も精神も放射能を浴びて病的に肥大化しているようにも見える。

 以前、やはり核戦争後の地球を扱った『風の谷のナウシカ』というアニメがあった。これも気持ち悪くて私は嫌いだったが、それでも、これにはまだ復活への希望があった。ところが『北斗の拳』となると、ひたすら荒廃と無意味な暴力だけで主人公の闘いも展望のない刹那的な正義感によるものでしかない。ところがこのようなアニメに子供達は熱中しているのだ。どうやら、本当に不気味な世界は映像の中にではなく、それを受け入れる私達の精神世界の中にあるらしい。それを思うと私はそのおぞましさに身が振るえる。

文化って何だ

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