ふたつの言語観
長い間、私は『ことば』(特に話し言葉)というものは『本当のこと』を伝えようとして発せられるものだと思っていた。もちろん言い逃れやなんらかの意図を持ってウソをつくこともあるだろうが、それもことばが元来『本当のこと』を伝えるために使われるものだからこそ、それを悪用しようとする企てなのだと思っていたのだ。だから私にとってことばの価値を測る尺度は、話し手の誠実さと、話された内容の真実性であった。私はそれがごく自然な感覚であり、誰もがそう思っているのだと信じて疑わなかった。
ところが最近、ことばを別の観点から捉える人々がいることに気づいた。つまり、ことばとは自分を守ったり自分の目的にしたがって他人を操る手段だと割り切る立場である。そう考えればお世辞も誇大表現もそれほど気にならない。ことばを世渡りの道具だと考えれば、内容の真実性は二義的なものとなり、個々のことばの価値はその道具としての有用性だということになる。
政治家の発言や商売上の駆引きなどがそういう要素を持つのは不思議ではないが、それと同じ感覚を日常生活の中の言語観として持っている人たちがいるのだ。もちろん彼らはそれが自然なことだと思っているわけで、そういうことばの使い方になんの疑問も後ろめたさも感じていない。
これら二つの言語観を両極端として、その間に様々なニュアンスの立場がある。私自身はやはり『本当のこと』を伝えるものとしてことばを使いたいが、それに固執していると人を誤解することもあると自戒している。
日本語の風景
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