組織体としての学校
九年前、私の長男が生まれる前のことである。当時私たち夫婦は二才になったばかりの長女と三人暮しをしていた。ところが第二子の出産を控えた妻が前置胎盤になり流産のおそれがあると診断されて、出産までの三カ月間入院したのである。
そのあいだ、私は掃除・洗濯・炊事などの家事の一切と、長女の世話や保育園への送り迎えなどをすべて一人でしなければならなかった。朝五時前に起きて家事に取り掛かり、夜、床に就くのは十一時頃であった。
我ながらよくやったと思うが、それでも、朝、職場に遅刻するのはしょっちゅうだった。夕方、保育園の迎えの時間になれば、どんな重要な会議の途中でもそれを中座して帰らなければならない。生徒の家庭訪問も、家への持ち帰り仕事もできない。そんな中で、私は周囲の先生の有形無形の支援に頼って仕事を続けていたのだった。
しかしこのような事情は特別に珍しいことではない。年老いた親や病弱の子どもを家に抱えている先生もある。自分自身の健康を害している先生もある。女性の先生で、乳児の面倒を見なければならなかったり、家事一切を引き受けたりしている人も多い。
このように、先生によって個人的な事情も様々であれば、教育に対する考え方や、教科指導、生徒指導の力量も様々である。そのような先生が集まって学校を作っている。
熱血先生は魅力的だし、教育に関する理想論はいくらでも言える。しかし、多様な職員と多様な生徒からなる学校では、現実に依拠しない理想論はやがて破綻する他ないのだ。
学校の日常風景
幼稚園に来た手紙 根性のある話 廃止されたリレー 欠席の理由
離任式のセーラームーン 人間ってすごい!と思えるしあわせ 組織体としての学校
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