私の挫折
『十で神童・十五で天才・二十過ぎればただの人』 程度の差はあっても、たいていの人が体験することだ。しかし私の場合はさらにその後に『二十五過ぎれば落ちこぼれ』とでもいうべき時代があった。『ただの人』ならともかく『落ちこぼれ』になった時の苦しさは、おそらく体験者にしかわかるまい。
私はそれなりの理想を持って教師になった。しかし生徒を掌握する力もないのに理想論を振りかざして曖昧な指導をし、結果的に何人もの生徒を挫折させてしまった。当然、彼らからは敵意と軽蔑の目でしか見られず、私は『落ちこぼれ教師』として周りの先生のお荷物になってしまったのである。私は退職を決意し、次の仕事を捜していた。
そんな私を思いとどまらせたのは、たまたま聞いていたカーラジオから流れてきた教育評論家のことばだった。彼は『学校の先生が頼りなくて困っている』という保護者の不満に答えてこう言った。『どんな社会にも落ちこぼれはある。学校だってそんな先生がいてもいいじゃないか。それも社会の一つの縮図なのだから、生徒はそこからでも何かを学びとっていくものだ。』と。それを聞いて私は急に気が楽になったのだった。
もちろん、当の本人がそれを言うのは責任逃れだ。こんなことばに慰められた私は教師として失格だったのかもしれない。しかし、現実にそんなことばでしか癒されない挫折もある。もちろん、それは生徒にとっても同じだ。私が自分の体験を語りながら励ましたとき、涙を流しながら聞いていてくれた生徒のことが忘れられない。
マージナルマンリンク
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